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2019年03月03日|お知らせ



『経済成長という病―退化に生きる、我ら』 平川克美を読む。

『経済成長という病 退化に生きる、我ら』

経済成長という病 (講談社現代新書 1992)

平川克美(著)
2009年4月20日
講談社
740円+税

「反省」だけなら猿でもできる※1 時代とでも云えばいいのだろうか。米国主導のグローバリズムや、金融工学を駆使した金融資本主義や、ナイーブな市場原理に対する批判の書は巷に溢れている。

今読まれている経済書というものは、ほとんどがそんなものなのだと思うけれど、政治経済が、科学ではなく、個人的な生活感の集合的反映でしかないのだとすれば、それは悪いことではないのかも知れない。勿論あたしの立場的にも。

あたしはこの10年、(経済に関しては)「普遍経済学」的な立場をとってきた。※2 そのために、主流の経済的な動き(つまりナイーブな市場原理)には、ずっと批判的な立場にいることで、主流からは無縁とうかオミットされつづけてきた。

しかしそれだけなら生活不能者になりかねなく(生活するために)『とりあえずは大きな流れで流れて、それ以上のスピードで流れることで独自性を保つ』(@川俣正)などという、河童の川流れのような戦略(というか呪文)で生きてきた。

しかしその流れ具合が少々速過ぎるのか、金儲けとは無縁でしかなかったのだが、今の「反省」が、何故あたしは時流にちゃんと乗らずにビジネスチャンスを逃したのだろうか、だったりするなら、それが唯一の「反省」の対象であるなら、あたしはどうしようもないヘタレでしかないけれど、まともなビジネスマンではあるだろう。

しかしそれは、多くの人々にとっては重要なことで、主流に、乗るのではなく、小判鮫のように寄り添い、決して速く流れないように生きることは、生活しなくてはならない人々にとっては、悪いことではなく、いやむしろそうして生きることしかできない人々で、この国はできている。

速くても、遅くても、もしかしたら普通のスピードでも、結果はあんまり変わらないのかもしれない。

これは不感症の心象である。 

そんなあたしだから、今、市場原理主義批判、「交換の原理」批判的な言説を読んでも、「だからどうしたというのだ」的な感想しかもてないのもたしかだし(遅いのではなく、遅すぎるのである)、読むことが面白い、というような政治経済的な言説に出合うことはことは希でしかない。※3

しかしこの「希でしかない」というのは、速くても、遅くても、普通でも、結果はあんまり変わらないからではなく、ましてや著者や出版社の意図とも関係のないのであって、ただ著者が、自分を棚に上げて批判を繰り返すのを読むのは不快だ、というだけのことである。

ある政治的な立場をとることは、言語活動の停止である。しかし言語活動は復活する。政治的なステレオタイプで。それを吐き気なしに呑み込むことがあたしは苦手である。

つまり、その「反省」※1 なき一方通行的言説の存在と丸呑みこそが「反省」すべきことであり、その視点を欠いた一切の言説は、批判する対象は違っていても、やっていることは、この10年の主流の経済学の人たちとたいして違わないのである。※4

平川克美さんの『経済成長という病』を読んだ。

平川さんの本を読むのは初めてだが、あたしよりも8才年上の先達は、「私は」と書く人であった。

あたしは「私は」と書く人が好きだ。

新聞のテクストが読むに値しないのは「私は、思う」がないからで、それは公正な言論という装いためなのだろうが、ほんとは「私は、思う」でしかない言葉(思想)を、「私は、思う」を棚に上げてしまうことで、テクストを「顔なし」にしようとする。

「顔なし」とは、ルネ・マグリットが 『夢の解釈』で表徴してみせた、万人のシニフィアンへの欲望である。※5

それが世間であり「みんな」であることで、マスコミは世論を動かせる力を持つのだけれども、「私は」と書く人は、自らを語ることで、言葉(思想)を〈他者〉(読者)に届けるしかなく、しかしそれは「私は、思う」だけ(の文体)ではできない。

「私は、思う」だけなら「自分を棚上げしている人」でもできる。

両者にある断層は自己言及であるだろう。「反省」※1である。「反省」する人は、何故に「私は、(そう)思う」のか、という問いと常に向き合いながらテクストを書く。そのためにテクストを書くのに悶え苦しむ、故に生まれるテクストの、作者(読者)としての悦楽を知ることになる。 

「街的」をテクストにすること。それは「ウソ」と同じ土俵にあがることの闘いなのである。江弘毅のテクストも、「大阪コテコテ&ベタ万歳」言説も、(特に東京からみれば)同じ類のものとしか思われかねない過酷さが待ち受けている。

だからなおさら「街的」なテクストは己との戦いとなる。書くことで悶え苦しむのである。その闘いのプロセスが、まるでナメクジが這った跡のようにあらわれてくるのが江弘毅のテクストであることで、『街場の大阪論』は闘う江弘毅なのだ。※6  

ましてや自己言及の対象は、いつでもなんだかわからない自分自身であるのだから、さんざん苦しんだ挙げ句に「わからない」と書いてしまう。あたしは「わからない」といえる人が好きであり信頼する。

わからないから考えているのである。そのわからないから考えるを、読んでいる「私」も共有できる(ような気がする)ことで読書はひとつの悦楽となる。

それは意見を同じくするという意味ではなく、違っていてもいいのである。

「反省」する人のテクストには〈勝ち/負け〉がない。しかし自分を棚上げする人のテクストは常に「勝利」にしか向かわないのである。せっかちなのである。長持ちしないのである。早漏である。異性にはもてない(かもしれない)。

平川さんのこの本は自己言及のテクストだと(あたしは)思った。平川さんが異性にもてるのかどうかは知らないけれど。 ということで午前6時起床。浅草はくもり。

※注記

  1. もちろん猿に「反省」はできない。「反省」とは、己の悪を否定しつづける哲学の行為であり、内省から生まれる精神的な進化こそ、あたしのような根っからの悪党が身につけるべき精神的な技術なのだと勝手に考えている。
  2. その選択が偶然なのか必然なのかは知らない。 ただ永く地方の公共事業というヘタレな生き方で育ったせいだと自分では思っている。違う職業で育っていれば、違った「地面」を選んだかもしれない。
  3. あたしは批判的な意見をほとんど書かないようにしている。批判的に書きたい本や店はもちろんある。けれども、それをテクストにしない(つまりブログ記事にしない)のは、個人的なルールであり、あたしの「存在するための習慣」なのであって、変えるつもりもない。だからこのブログで紹介している政治経済書は、あたしが読んで面白かったものだと理解していただいてかまわない。
  4. だから転向のした(といわれている)中谷巌さんが面白かったりしたのは――その転向が本意なのかポーズなのかは知らないが――少なくとも「反省」が「自己」に向けられていたからで、しかしそれも、自己言及する人が、あたしは好きだということでしかないのだけれども。『資本主義はなぜ自壊したのか』 中谷巌を読む。 参照
  5. おカネというメタ欲望とルネ・マグリットの 『夢の解釈』。 参照
  6. 『街場の大阪論』 江弘毅を読む。 参照
Tags: 平川克美 ,

Written by 桃知利男のプロフィール : 2009年04月20日 07:42: Newer : Older

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『ミシュランさん、一見さんお断りどす』を読みました。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡 (2009年04月22日 14:03) これはほんとはあたしのブログ用に書こうとしたのものですが、その内容から... ...

コメント

いまやジャーナルな思想が普遍性への探求という本来の性格を失い、ただ、〈正しさの信念〉の共同性を守ることのみに奉仕するという事態が生じていることはあきらかでしょう。
桃知さんのブログをみてもお仲間共同体の系譜が垣間見られる。お仲間が寄り添うことはいいことです。しかし語ることや思想がほとんど同一となると、それがはたして自己言及ということになるますかね?
たとえば常にせっかちに断定を下す内田樹の言説が「わからない」に裏打ちされていますか?
あなたが江弘毅をもちあげて語るとき同じように同じような思想と語り口で平川克美も内田樹も江弘毅をもちあげて語っている。だれかが養老孟司を取り上げれば他方でも取り上げている。
いわば知なるものが、〈正しさの信念〉の共同性を守ることのみに奉仕するという事態が生じていませんか?

そういうものからかつて何が生まれたか、あなたご存知ないのですか?
自己言及なるものが仲間内の馴れ合いから生まれるものではないでしょう。たしかにブログで悪口を書かないことは平和的で結構です。それはしかし波風がありながらも安楽な人生を送ってきた、そしてこれからもたぶん安楽な人生を約束されている坊ちゃんご隠居の言い草でしかありません。
自己言及ということは他者言及でしかないのですよ。
というか自己と他者をわけることなどできはしませんよ。自己言及とは同時に他者を言及することです。倫理性とは言及されてしまったものへの批判と懐疑からしか生まれないものですよ。

投稿者 イカフライ : 2009年04月21日 08:38

>イカフライさん

コメントありがとうございます。

あたしはが悪口を書かないことについての意味はご指摘のとおりです(ただ安楽な人生を約束されている坊ちゃんご隠居ではなく明日をも知れぬ零細自営業者ですが)。

このあたりは葛藤があります。それはあたしがIT化でやろうとしていることが、まずは「共同体性を守ることに奉仕する」だからです。

わたしの仲間内とは、地方の小さな建設業者であって、この10年、この共同体は、政策(政治経済)的に破壊されるままでした。今地方の建設業者の共同体はほとんど機能をしていません。

その共同体性を守ることに必死であったのは、あたしがその共同体で育ち、まだ多くの仲間がそこで生活を営んでいるからでしかありませんし、共同体性破壊の圧力が強烈であった時代に、ITの世界に身を置いたとしても、未だに建設業界の人間だからだと思います。

「共同体性」の内側、そして「共同体性」を擁護される方々については、極力悪口を書かないというルールは、追い詰められた者(既得権を守るというところから始まって今は生活を守るでしかなくなっていますが)として、少しでも味方が欲しいという本音から生まれたものだと思います。

しかしそれが「語ることや思想がほとんど同一となる」仲良しクラブとしてしか機能しないなら、その共同体性は閉じてします。これはあんまり良くないというか、共同体性が腐る、自己破壊してしまう。ご指摘のとおりです。

共同体と個の矛盾、その矛盾を否定則肯定、肯定則否定で乗り越える個が力をもたないと、共同体性はただ閉じてしまうことで自己崩壊する。それを如何に発展的に解消するか。これが「共同性を守ることに奉仕する」IT化からの次のステップ、あたしの課題です。しかしこのあたりは試行錯誤の日々でしかありません。

そこで今回のテクストです。今回は「語ることや思想がほとんど同一となる」ことへの違和感から書き始めました。それをあたしのルールである「悪口を書かないこと」フィルターにかけるとこうなってしまう、といようなものです。

見透かされましたね。
脱帽です。

投稿者 ももち : 2009年04月21日 10:16

桃知さん

困りました。
穴があったら入りたい。
汗顔のいたりです。
桃知さんに地方の小さな建設業者の大事な仲間内がおありになること、つい勘定にありませんでした。
失礼しました。わたしはそのようなお仲間内を批判したのではありません。ま、わたしはこの程度の者です。

わたしは桃知さんが紹介してくださった増田さんのご本から教わったのです。
《とうとうやってしまった。売り手側アナリスト廃業後も細々と続けさせていただいていた日本の機関投資家のみなさんとのご縁も、これでぷっつりと切れてしまうこと必死という本を書いてしまった》(『格差社会論はウソである』)

この「おわりに」を読んで、ああ、懐かしい声を聞いたなという気がしたのです。むかし、わたしどもがガキのころはこういう物語に身を置く侠気の人たちがジャーナルな論壇にもたくさんいらっしゃったなと。自分が身を置く共同体に背を向けても何か騒ぎを起こしたい、面白く生きたいといういなせな方が。

それに引き換え、たとえば江さんがミシェランを痛罵すると内田樹氏も平川克美氏も同じ時期にミシェランを痛罵し、しかも、語り口も内容も言葉も双生児、いや三つ子のようにまったく同じという言説に出会った。

「星が何個とか、ミシュランが選んだとかの講釈を垂れられたら酒が不味くなるじゃねぇか。」April 14, 2009「腐ってもミシュラン。」(カフェヒラカワ)

「そういう「たいせつなもの」は情報として、数値として、記号として扱わない方がいい、と言っているのである。
だって、美味くなくなるから。オレは美味いものが食べたい。」街的の骨法(内田樹の研究室)

内容に格別文句があるわけではない。
ただ、そのように公に発言する力をもつ人たちが、互いに批判することを忘れて、互いになあなあになって、同じ言葉、同じ思想を公にばらまいてゆく。この線上には茂木健一郎や養老孟司や橋本治や高橋源一郎といったもろもろのジャーナルな力をもつ批評家や評論家たちが連なる。

あきれ果てたわけです。そんなことしていてどうするのと。もうずぶずぶじゃないですかって。自己言及もなにもあったものじゃない。増田さんのように独りで生きられないのも芸のうちって、こういう姿勢がいわゆる「団塊の世代」の最悪の病癖じゃないのかと。わたしらは無責任というものについてもっと思いをはせるべきです。重く受け止めるべきです。こんなものラグビーのモールに突進してバラバラに解体する勇猛なフォワードのように体当たりするべきです。増田さんのように。
それはともかく、そのような方々と親交の深い桃知さんについあたってしまったのかもしれません。
桃知さんの大事にする共同体についてはまったく何の他意も文句もございません。
どうかご容赦ください。

投稿者 イカフライ : 2009年04月21日 22:36

呆れ果てました、イカフライ氏の言説に。内田氏、養老氏、高橋氏の主張は、小生の65年間の人生の中で「そうだよ、そうだったんだよ、なんで誰もこういう主張をしてくれなかったんだよ」と、賛同というか諸手を挙げて万歳をした言説でありました。いろんなところにいろんな人がいて、「ももち」さんのように現場で生きていらっしゃる方もいて、貴方のような「たくさん漢字を使った難しい言葉で上から目線でものを言う」人もいて、そして小生のようなアホがいる。言論は自由だけれども最近はアホなことをいう人が多過ぎるような気がします。
こういう投稿をしている小生もアホです。

投稿者 中年四季の歌 : 2010年07月23日 17:22

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