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『資本主義はなぜ自壊したのか』 中谷巌を読む。

資本主義はなぜ自壊したのか

資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言

中谷巌(著)
2008年12月15日
集英社インターナショナル
1700円+税


午前7時起床。浅草はくもり。この本のことは、先に「フレーズ」にも書いたけれど※1、あたしはこれをどう評価していいのかわからないでいる。つまり、この本の著者である中谷巌さんは、あたしの批判の対象(新自由主義者)でしかなかった人であり、それが今更のように宗派替え(転向)の本を書き、あたしの方に近づいてきた(たぶん)。けれど、それは信じていいのか? そんな感じなのである。

新自由主義が嫌いなあたしは、素直にそれを喜べばいいのだろうが、なにか気持ちが悪い、落ち着かない。なによりも出版のタイミングが悪すぎる。金融資本主義ほぼ沈没のこの時期にである。出すならもっと早く出して欲しかった、金融資本主義全盛の時に出してほしかった、それならあたしは諸手を挙げて中谷さんを信用したのに、と思うのは欲張りすぎだろうか。

あたしはデジタル革命(と当時は呼ばれていた)の諸々の概念を、中谷さんや竹中平蔵さん等の、新自由主義的IT革命論者から学んだ。その主張は、成功している国である米国の経済的な繁栄の推進エンジンはITである、だから日本も米国に倣うべきだというナイーブなもだったのだが、当時、米国経済は成功の絶頂期にあり、ニュー・エコノミーもそれらしく聞こえる時代だったので、ボンクラなあたしは、彼ら(IT革命論者)の単純素朴なIT革命論(新自由主義)に惹かれてしまったのである。※2

しかし、ITコンサルテーションをしながら日本中を行脚するなかで、「地方」の衰退、その地方と運命共同体でしかない地場の建設業の衰退、そしてそこで生きる人々の生活の苦しさは、「IT革命論」や単純な市場原理の文脈だけでは解決できないものであることを痛感した。あたしは一転、中谷さんや竹中さんを批判する立場となった。そしてその立場はずっと変わらず、つまりネオリベ(新自由主義)批判をし続けてきた。

普遍経済学のトポロジー批判するためには、新自由主義のオルタナティブは示さなければならない。あたしがオルタナティブとして準備したものが普遍経済学である。このサイトのいろんなところで見ることのできる例の三幅対だ(右図)。

しかしこれも一部の方々を除けばまったく見向きもされない代物であることで、あの手この手でその普及活動をしてきた。それがこのサイトである(たぶん)。※4

そんなあたしから云えば、この本が謂わんとすることは、ほぼ全部このサイトの中にあると書くこともできる。なのでこの本を読んでも、(あたしは)今更でしかないのだけれども、それはこのサイトに書いてあること(新自由主義批判)は、この中谷さんの本に、きちんと要約されて書かれているということでもある。

そして中谷さんの意見もまた普遍経済学的なのだ。曰く「国家では社会は救えない」である。これは「パトリ」を語る者の共通理解であるだろう。さらに彼は市場原理によるコミュニティの分断と個人のアトム化が問題だという。交換の原理が壊した贈与共同体性こそが、あたしら日本人のESS的強み、今必要なもの(日本再生の要)であることを認めている。つまりこの本は、(あたしの)普遍経済学的な視点でも違和感がない(と書くことができる、というかそう読めた)。

そしてこの本が単純な経済学書ではない、新自由主義批判の書ではないのは、あたしが『桃論』でそうしたように、中谷版「私の身の上ばなし」(第一章 なぜ、私は「転向」したのか)があったりするからだ。※5

16歳も年上の中谷さんがいまさらの「転向」なのである。それは16歳も年上だからできることなのかもしれないし、今のような経済状況だからこそそうしたのかもしれない。もしかしたらこのままキャリアを終えたとき、小泉構造改革の片棒を担いだエコノミストというレッテルを貼られることをよしとしなかったのかも知れない。

この本を読んでいると、そんな諸々が次から次へと湧き出てくる(から複雑な思いにあたしはとらわれている)。しかし冷静に評価するなら、消費者的な「みんな」にそこ、是非この本を読んで欲しいと大推薦してしまうしかない。それは中谷さん一流のテクストの読みやすさも含めてである。かなり読ませる。経済学の入門書にもいいかもしれない。

しかし返す返すも、もっと早く(できれば安倍政権の頃にでも)だして欲しかった本なのである。だから「あー」付きなのだな。あー、遅すぎる、これに尽きる。 

※注記

  1. コミュニティという考えが竹中氏にはないんです。(中谷巌)|ももちどっとこむ|フレーズ  参照
  2. その後このITバブルは崩壊し、グリーンスパンの職人的な誘導政策で不動産バブルへと姿を変えた。それが崩壊したのが今、つまりサブプライムローン問題に端を発した金融危機なのだけれども。
  3. その間、多くの小泉―竹中的なものを批判する方々同様、あたしは自らを主張する場(仕事)を失ってきた。あたしと同じような仕事をしていた方々はもう殆どいない。新自由主義という一神教的教義は対立するものの存在を許さない)。けれどあたしは地方と建設業のためのITコンサルテーションを続けてきた。
    あたしにはそのこと、つまりこうして地方の建設業の方々と一緒に「厳しさに耐え抜いてきた自信」がある。『この場所を離れずに、一見かたくなに地域にしがみつき生涯を終わろうとするのは、この現実、すなわち厳しさに耐え抜いてきた自信があるからです。』(阿部宗一郎:『やまがた村山学 創刊号 vol.1:p126』
  4. 例えば「街的」というのは、普遍経済学における「交換」のオルタナティブとしての「贈与」の強調なのである。だから浅草の「街的」な店を書くこと、さらには共同体性の強調として、地方の食をあたしは書いている(つたないテクストだけれども)。
    それはおカネがシニフィアンとなれない次元のものたちである。「街的」な店にはおカネでは解決できない「結界」がある。それをおカネで解決しようとする(交換の原理で押し切ってしまおうとする)者を「いなかもの」というのだ。これを解決できるのは「街的」という共同体性だけである。
    このような取り組みが露出させる問いは「なぜ私はアナタではない私なのか」や「なぜここが他ならにここであるのか」、つまり「なぜコレはアレじゃないのか」である。つまりおカネがシニフィアンになれないということは、代替え不可能性のことであってそれはパトリを指し示している。パトリはおカネじゃ買えないのである(と書くと「いなかもの」になってしまうのだけれども)。
  5. 『桃論』もそういう意味では、ナイーブなIT革命信奉者であったあたしの「懺悔の書」であり、「転向の書」であったといえるだろう(たぶん)。

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Comments [3]

No.1

懺悔の書となっている。反省が不足している。郵政民営化についても、財投と切り離したのは良かったなどと書いているが、本当にそうか。財投改悪ではなかったのか。情けをかけてはいけないのではないだろうか。

No.2

私は、単純に、中谷さんという人は、常にその時どきの、流行している言説にべったり寄り添うことしかできない人だと思います。そういう人は信用できません。いずれ、現在の懺悔したことも、また懺悔することになるのではないでしょうか。もう少し、自分の頭でよく考えて生きて欲しいと思います。

No.3

なぜ、いまごろ、立場を変えたのか、をせつめいしてもらわなきゃ自省の書、にはならないでしょう。自省する必要などちっともなかった。彼のこれまでの行動原理そのまま、です。機を見るに便。これでなきゃ、教授商売などやってられない。

企業成績がいいときには市場主義、小さな政府。不況になったら公的支援、おーきな政府~セキュリティネット。

立場を変えて、ふたたび、講演依頼が殺到、本も売れる。これ以上何が必要か。

ころんでも
ただでは起きない
教授かな

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