ジョイフル三ノ輪
ジョイフル三ノ輪
撮影したカメラ VQ1015 Entry +ファンシーフォーカス by Picnik


中心性

四角形の、網状の都市(たとえばロスアンジェルス)は、深い不快感を生むといわれている。こういう都市は、わたしたちのなかにある都市についての一つの曼荼羅感覚(セネステジア)、つまりそこへ行き、そこから帰ってくる一つの中心、そこを夢み、そこへおもむきそこから取ってかえす、一口にそこでおのれを発見する一つの完全な場所をいっさいの都市空間が内部にもっているとする感情、これを傷つけるのである。(ロラン・バルト:『表徴の帝国』:p52)

ジョイフル三ノ輪の面白さは中心をもった路地のロジックであるだろう(という仮説をたてれば)その中心とはなにか。都電荒川線の三ノ輪橋停車場なのか。

都電荒川線三ノ輪橋停車場
都電荒川線の三ノ輪橋停車場
撮影したカメラ VQ1015 Entry +ファンシーフォーカス by Picnik

しかしあたしは三ノ輪橋停車場を目指して三ノ輪に行ったのではなく、ジョイフル三ノ輪(商店街)を目指して出かけそして帰ってきた。のであれば、ジョイフル三ノ輪(そのもの)が中心なのかという問い。それはあたしを混乱させる。

あたしの中心は浅草寺であるに違いなく、(あたしが)三ノ輪に向かうというのは、中心から周辺に向かい、また中心に帰ってきているということに過ぎないのかもしれない。

しかしそれをジョイフル三ノ輪のロジックとするのはいくらなんでも乱暴であり縮尺が間違っている。それは余所者の言い種であるだろう。三ノ輪の商店街は三ノ輪にその中心をもつはずで、しかしそれがわからないのは、あたしが三ノ輪では余所者でしかないからだろう。

では商店街そのものが中心になってしまうという逆説はあり得るのか。

あり得るだろうとあたしは思う。というかそれはショッピングセンターが使うロジックである。大規模なショッピングセンターは中心のない(というか中心はある。ただそれが自らの消費欲動であることで見えないようになっている)自己完結型の迷宮をつくることで、たとえば浅草が浅草寺を中心につくりあげた緻密な子宮的構造路地のロジックを粗っぽく模倣しミニチュア化している。

しかしそれは余所者を集めるためのロジックでしかなくて※1、ジョイフル三ノ輪をフツーに使っている生活者のものではないだろう。

まあそのことで余所者であるあたしはジョイフル三ノ輪を谷中銀座のように消費してしまえるのもたしかなのだが、しかしそれだけで済ますには如何にも惜しい時空なのである、ここは。

あとどのぐらいこのパサージュに通えば、何かがわかり何かに気づくのだろうか等と、(ジョイフル三ノ輪に)結構はまっている自分を笑いながら午前6時起床。浅草は曇り。左足が痛い。 

※注記

  1. レンタルショップにしろ、コンビニにしろ、日本社会はこの二〇年間、ひとが出会わなくても動くシステム――より正確に言えば、たとえ物理的にひと(店員や客)に出会っても、それを人格同士の「出会い」と意識しないで済むシステムを整備してきた。コンビニやファミレスでは、何回同じ店員と顔を合わせても決して知り合いにならない。そこには独特の匿名性がある。(東浩紀:『郵便的不安たち#』:p258)