スヴニールママンの純生和三盆ロール 南千住の「作品」※1 LUMIX DMC-FZ8
ロールケーキ
午前5時起床。浅草はくもり。あたしは「の」の字を書くものに対する愛着心が強く、寿司なら太巻き、洋菓子ならロールケーキである。
「の」の字の構造
ロールケーキは、「の」の字を書く。もちろん大濱ロールも「の」の字を書く。それは、東京の都市構造と同じで、東京の中心は空虚だといったのはロラン・バルトである。
ジャック・ラカンが自我の中心は空っぽなのよ、といったら、ヨーロッパ人たちは驚いたり怒ったりしたのだけれど、「の」という文字をもっているあたしら(日本語で考え、その考えを日本語で述べる人)は、会社も、協会も、町内会も、都道府県も、政治も、個人でも、その中心がからっぽであることを知っていたりする。
だから偶有性は機能するのであって、麻生さんでも首相になれたし、芸人でも知事になれたりする。純情な乙女は、好きな人の前では、もじもじと「の」の字を書いて、あたしは今は空っぽよ、とアピールできる。
大濱ロールは、その「の」の字の空虚さの中に、クリームと粒栗を詰め込んでみたのであるが、それはたんなる空虚さの穴埋めではなく、逆に空虚を強調している。つまり中心は空虚であるが故に、その空虚を埋めるモノで、全体が如何様にも様変わりできる可能性を示しているのである。※2
スヴニールママンの純生和三盆ロール
スヴニールママンの純生和三盆ロールも《「の」の字の構造》を持つけれども、しかしこれは生地とクリームに和三盆糖を使ったロールケーキであって、そのことでこのロールケーキは他のロールケーキとの差異をつくりだしている。
それは「の」の字の空虚を和三盆が埋めているから和三盆ロールなのではなく、生地を含めたすべてに和三盆が使われているから和三盆ロールだということだ。
しかし素材だけで「作品」ができていると考えるは(それは科学的な態度かもしれないが)、和三盆ロールの写真を指さしてこれは和三盆ロールである。なぜなら和三盆ロールだから。と繰り返しているようなもので(つまりトートロジー)モノを見る目を失っている。
そう、これをつくりだしたお菓子を作る人、職人とその店――パティシエやパティシエールの創造性や「贈与」を勘定にいれていない。それらがなくなると「店」と「パティスリー」と(そのお客)いう「種」を失う(つまり何処がつくっても同じということになる)ことで「個」も見えなくなってしまう。つまりこの「作品」は「種」なしに生まれるものではない。挙げ句にこの洋菓子の説明書は何気にこういうのだ。
ほんのちょっぴり懐かしい思い出の味がいたします。
それは例の「手に負えないもの」。※3 [浅草グルメマップ]
スヴニールママン [ スイーツ、甘味 ] - Yahoo!グルメ |
※注記
- あたしはある種の「商品」を「作品」と呼んでいる。その定義は未だにあやふやなのだが、ひとついえるのは「ハブ」であること。つまりその「作品」を中心にネットワークを構築できること、人と人とを結びつけることができるもの。
- 大濱ロールは「の」の字を書く。(クイーン洋菓子店:宇都宮市) 参照
- それゆえ、「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。 (ロラン・バルト:『明るい部屋―写真についての覚書
』:p94)
もしくは「愛の抗議」
『父と母が互いに愛し合っていたことを私は知っている、その二人が並んでいる唯一の写真を見て私はこう思う。永久に失われてしまうのは宝のような愛である、と。なにしろ私がいなくなれば、もはや誰もそれについて証言することはできないからである。そのあとには、もはやただ無関心な「自然」しか残らないであろう。それはまことに痛切な、まことに耐えがたい別離の悲しみであるから、ミシュレはただ一人、彼の世紀の人々に対して、「歴史」とは「愛の抗議」であると考えたのである。 (ロラン・バルト:『明るい部屋―写真についての覚書』:p117)