桃知商店よりのお知らせ

『日本語で書くということ』 水村美苗を読む。

日本語で書くということ

日本語で書くということ

水村美苗(著)
2009年4月25日
筑摩書房
1600円+税


例えばわたしは、日本という、書き言葉を軽んじることにおいて驚嘆すべき先鋭さをもった国でものを書こうとしている。※1

水村美苗さんには『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』でやられてしまい、その余勢を駆ってこの本と『日本語で読むということ』を読んでいた。

相変わらずの硬質な文体で刻まれたこの本テクストは、「日本語で書くということ」をテーマに書き下ろされたものではなく、ここ二十年の間に書き綴られたエッセイ&評論文集らしいのだけれども、上に引用したフレーズ一発で著者の「日本語で書くということ」の苦吟(いや喜びか)は厭と云うほど伝わってくる。

あたしはIT業界兼建設業界の人で、しかし活字紙媒体的体質の友人は多く、あたし自身も「日本語で書くということ」への押さえきれない〈欲望〉を抱えたテクスト狂である(とはいってもWeb専門だけれども)。

けれどあたしの仕事先であるWebの世界は「書き言葉を軽んじることにおいて驚嘆すべき先鋭さをもった」ところなのであって、例えばTwitterにある多くの「つぶやき」はテクスト的には屑である。※2

ハイブリッド 

Webの世界――『Being Digital』(すべてはbitになっていく。@ネグロポンテ)は中沢新一さんのいう「ハイブリッド」なのだ。

小川浩さんのいう「ストリーム」は「マラルメ詩が小さな帆船に乗り込んで漕ぎ出した、近代の荒れ狂う多様体の海」

そして「百年後には比較的穏やかな乱流となって、表層の全域にそのカオスの運動を繰り広げるようになった。」 bitになって。※3

そのことは、もはや「高踏的」な知的エリートばかりではなく、インターネットを手にした多くの大衆の体験し、知ることとなったのだ。マラルメはその多様体の隅々にいたるまで意識のネットワークを張り巡らせ、大切な接続点でおこっていることのすべてを言語化しようと努力した。これに対してネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなっているに過ぎない。 (中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p365)

それはとりたててすばらしいことではないが、かといって陳腐なことでもない。

なぜなら今のTwitter は反省の次元を経由しないテクストで埋め尽くされているかもしかないけれど(それはmixiも同じだが)、ただ大きな流れ(ストリーム)であることで、あたしの無力さを露呈させてくれている。※4

グラモフォン・フィルム・タイプライター

その「ストリーム」(大きな流れ)を理解するために、ラカン派(つまりあたしのこと)なら、ボロメオの結び目という三幅対(三位一体モデル)を使い※5、そこでは象徴界(S)に「日本語(で書くこと)」はある(ことになっている)という。

しかし「日本語で書くということ」の象徴である活字紙媒体的メディア(つまり出版、文学、新聞もか)はその力を失いつつあり、活字紙媒体に日本語で書くことで生計を立てることが可能な(つまり印税や原稿料で生計を立てている)人たちは、あたしにとっては奇跡のような人に思えたりする、とも。

しかしこれだけでは「ストリーム」の理解は不可能であって、ここでフリードリヒ・キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』 を持ち出し、グラモフォンを現実界(R)、フィルムを想像界(I)、タイプライターを象徴界(S)にそれぞれを対応させれば、それらが言い表すもの、つまり音も、映像も、文字も、今やすべてが『Being Digital』なのである。これを「ストリーム」と小川さんは呼んでいるのだろう(たぶん)。※3

ボロメオの結び目

本書の構成は、グラモフォン(蓄音機)、フィルム(映画)、タイプライター(書字機)という世紀末に登場した3つのメディア機械を、序論につづいた3部構成で順にひとつひとつとりあげて、これを徹底的にテキスト化していったものである。(略) しかしキットラーはこれらに共通する「何か」に到達しようとして、本書を書いた。(略) Aの情報メディアによって記録されたメッセージは、Bによってメディア化されたメッセージに変換されたとたんに、Cという方法によって共有された認識のメソッドになっているはずだという指摘によって示唆されている。つまり、その「何か」のなかで、3つのM、すなわちメッセージとメディアとメソッドの不可分な共犯関係がおこっているということなのである。from  松岡正剛の千夜千冊『グラモフォン・フィルム・タイプライター』フリードリヒ・キットラー

象徴の貧困時代の「日本語で書くということ」

上の引用の『その「何か」』がデジタルであるなら、今のメディアはそのデジタル・データの表現形式の競争をしているに過ぎず、『Being Digital』(すべてはデジタルになる)が意味することは、あらゆるメディアは現実界(R)と想像界(I)に向かっていることで「象徴の貧困」はただひたすら加速するということなんだと思う(タイプライターはもはや必要ない。録音機も、カメラも、すべてはコンピュータやケータイにくっついている――もしくはその周辺機器化している)。

こんな時代に水村さんは「日本という、書き言葉を軽んじることにおいて驚嘆すべき先鋭さをもった国で」ものを書いてきた。それも日本語で。

それは「日本語で書くということ」――人文学的な語りで対象を理解しようとする〈欲望〉を諦めない人たちの行為であり、スティグレールにいわせれば絶滅危惧種的な行為かもしれず※6、江弘毅的にいえば『「街的」を書くには、ちょっと根性が要るで。』なのである。

あたしはそういう人たち(の書くテクスト)が好きであって、生きているうちに、水村さんや江弘毅のような人たちがいなくなると困るのは(いなくはならないと思うけれど)、テクストを読むのは常に〈他者〉であり(つまりあたしのこと)、あたしは日本語で書かれた根性入りのテクスト(「象徴の貧困」に刃向かうように書かれたテクスト)を書く人たちと同時代に生き、同時代に読む、という共感を失いたくないからだ。

そして書いている人にもそんな読者がいることをどこかで伝えたいと思う欲求があるのだろう。だからあたしはこうしてわざわざ読書感想文のようなものを書いているのだろうが、つまりあたしは読むために書いている(たぶん)、それも日本語でなのである。ということで午前5時起床。浅草は雨。

※注記

  1. 水村早苗:『日本語で書くということ』:p6
    このフレーズの意味するところは、あたし的には「日本語の構造」や「ギャル文字の構造」で語ってきたことだ。
  2. (あたし的には)そのテクストは想像界的な乳臭いものでしかなく、ロラン・バルトにいわせりゃ「注目すべきイエズス会士ファン・ヒネケンが文字と言語活動の間に設けたあの乳臭い音素である」(ロラン・バルト:『テクストの快楽』:p8-9) でしかない。つまり[織物]としてのテクストではない。けれどもそれはけっして陳腐なものではないのはその後の中沢新一さんの引用を参照。
  3. だから戦略はいつもの通りなのであって、「とりあえずはこの巨大な動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保っていくことが一つの方法になるかもしれない。」(川俣正:『アートレス』:p45) にきまっているのである。  
  4. ラカン派の精神分析的にはこれが教義なのだから仕方がない。一方、象徴界(S)を「かつて-あった」ものとして(つまり今はないものだとして)思考(実験)すると東浩紀さんになれる(たぶん)。
  5. 『象徴の貧困』のような本を読む気になりまた読む力のある以上、現在では非常に限られた規模の社会カテゴリーを代表しているのだということを忘れないでいただきたいとと私はいいたいのです。そのようなカテゴリーは、よほど想定-外のことでも起きない限り、おそらく絶滅の一途をたどるでしょうから。(ベルナール・スティグレール:『象徴の貧困』:p180)

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Comment [1]

No.1

本日はおめでとうござます!
これからも変わらぬテクスト狂で
ありますように!!!(笑)

PS.宮崎はまた(また)ゴチャゴチャ
しております。
(イベント会場より)

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