「返本率4割」打開の一手なるか 中堅出版8社、新販売制「35ブックス」

「業界の閉塞状況を打開したい」――中小出版8社が、責任販売制度「35ブックス」をスタートした。4割に上るという返本率を下げる狙いだ。

6日に都内で開かれた会見には、8社の代表者が列席。立って話しているのが筑摩書房の菊池明郎社長「出版業界や書店が閉塞している。返本率が4割を超え、高止まりしている状況を打開したい」(筑摩書房の菊池明郎社長)――筑摩書房や中央公論新社など中堅出版8社は7月6日、書籍の新販売制度「35(さんご)ブックス」を、共同で始めると発表した。

書籍は通常、「委託販売制」で販売されており、書店のマージン(定価に占める取り分)は22~23%程度。売れなければ、仕入れ価格と同額で返品できる。

これに対して35ブックスは、書店のマージンを35%と高めに設定する一方で、返本時の引き取り価格を35%に下げる仕組み。「責任販売制」と呼ばれるシステムで、取り次ぎにも協力を得て実現した。書店の利益アップと出版社の返本リスク低下、取り次ぎの業務効率化が狙いだ。

筑摩書房が中心となり、河出書房、青弓社、中央公論新社、二玄社、早川書房、平凡社、ポット出版が、復刊書籍を中心に、計26タイトル・47冊(セット販売含む)を提供。7月6日に書店からの受注受け付けを始め、11月上旬から配本する。 from 「返本率4割」打開の一手なるか 中堅出版8社、新販売制「35ブックス」 - ITmedia News


午前5時起床。浅草は雨。活字紙媒体的メディア(つまり出版、文学、新聞等)の困難さは『Being Digital』に収斂すると先に書いた。※1

グラモフォン・フィルム・タイプライター 

ここでフリードリヒ・キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』 を持ち出し、グラモフォンを現実界(R)、フィルムを想像界(I)、タイプライターを象徴界(S)にそれぞれを対応させれば、それらが言い表すもの、つまり音も、映像も、文字も、今やすべてが『Being Digital』なのである。これを「ストリーム」と小川さんは呼んでいるのだろう(たぶん)。

ボロメオの結び目

(略) 今のメディアはそのデジタル・データの表現形式の競争をしているに過ぎず、『Being Digital』(すべてはデジタルになる)が意味することは、あらゆるメディアは現実界(R)と想像界(I)に向かっていることで「象徴の貧困」はただひたすら加速するということなんだと思う(タイプライターはもはや必要ない。録音機も、カメラも、すべてはコンピュータやケータイにくっついている――もしくはその周辺機器化している)。※1

「象徴の貧困」とは反省の次元の喪失であり、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化する現実の表現である。

それを「動物化」(@東浩紀)と呼ぶのは間違いではなく、「動物化」が社会の流動性の増大に伴って失われていく個の多様性への人間の適応過程なのだとすれば、この過剰流動性の時代に、あたしらの文字を通したコミュニケーションさえ動物化し、ショートセンテンス・コミュニケーションに向かうのは(つまりはTwitter化)当然のことだろう。

それは動物的な「交話」のようであり、「交話」はそもそも活字紙媒体には向かない。なぜなら「交話」は即時性こそが生命であるからだ。※2

だからタイプライターがコンピュータになった途端、文字はbitになり、Webという大海に流れ出すことになった。さらなるレスポンスのスピードアップを求めてである。活字紙媒体の運命はそこで決まっていたのかもしれない。

「気分」だらけ

ショートセンテンス・コミュニケーションが向かうのは「気分」でしかない。と同様に、活字紙媒体が生き残るニッチも「気分」とその反対側にある「意味」の両極になるだろうと(あたしは)考えている。ただし「意味」のニーズはますます小さくなるだろうとも。動物化したあたしらの価値基準なんて「気分」でしかないのである。

動物に意味(歴史)は必要ない。※3

手に入れれば気分がいい。読んだら(エンターテーメント的に)楽しい気分になれる。なんだかわかったような気分になれる。(読んだだけで)食べたよな気分になれる。

その「気分」の欲求は、タイプライターの時代なら、グラモフォン(音楽)とフィルム(画像・映像)がその多くを担ってきたものだ(今でもそうだけれども)。けれど今やすべてが『Being Digital』(すべてはデジタルになる)なのである。

bit化した文字は「気分」に向かう。インターネットが普通にある時代に「交話」ツールとしての文字はただ「気分」に向かうのである。

今やbit(インターネット)は象徴界(R)と想像界(I)のものだ※4

それはインターネットがそうだからではなく、社会の過剰流動性に伴って失われていく多様性への「個」の避難場所(島宇宙=個性を重視する共同体の機能代替物)がインターネットにはつくりやすかったこと。

そしてその島宇宙での「交話」としてのショートセンテンス・コミュニケーションのための文字。それをフツーに使うあたしらにとって、活字紙媒体さえも象徴界(R)と想像界(I)化するのは当然のことであろう。

であれば書籍も売れるものは自ずと決まってくるだろう。象徴界(R)と想像界(I)のものである。象徴界(S)=意味を求める本はますます売れまい。ニーズ(意味への欲望)がないのだから。

「35ブックス」の取り組みが『日本語で書くということ』を『日本語で読むということ』をどこまで護持できるのかは知らない。ましてやこのニュースでは書く者への視点を知ることはできない。

しかし「日本語で書くということ」の象徴である活字紙媒体的メディア(つまり出版、文学、新聞もか)はその力を失いつつあり、活字紙媒体に日本語で書くことで生計を立てることが可能な(つまり印税や原稿料で生計を立てている)人たちは、あたしにとっては奇跡のような人に思えたりする、とも。※1

ただ出版業界の困難さ、意味の喪失、つまり「象徴の貧困」を伝えている。

※注記

  1. 『テクストが私に提供される。このテクストは私を退屈させる。それはまるで子供がおしゃべりしているみたいだ。テクストのおしゃべり、それは単に書きたいという欲求の結果生まれる言語の泡にしか過ぎない。それは倒錯ではなく、要求だ。そのテクストを書く時、書き手は乳呑み児と同じ言語活動を行うのだ。命令的で、無意識的で、愛情のこもらない言語活動、吸打音(クリック)の連打だ。(注目すべきイエズス会士ファン・ヒネケンが文字と言語活動の間に設けたあの乳臭い音素である)。』 (ロラン・バルト:『テクストの快楽』:p8-9)
  2. 『経済学者のケインズが言った有名な言葉がある。「今のことしか知らないのと、過去のことしか知らないのと、ぢちらが人間を保守的にするかわからない。」(『自由放任主義の終焉』 筆者訳)』
    ここで「わからない」というのが、反語的な使いかたなのはいうまでもない。ケインズは、「今のことしか知らない」、すなわち、過去を知らないのが、人を「保守的」にするというのである。もちろん、「今のことしか知らない」のは、若い人には限らない。いい大人でも本を読まなければ「今のことしか知らない」。だが、若い人は、本を読んできた年月が必然的に少ないがゆえに、「今のことしか知らない」確率が高く、それゆえ必然的に、「保守的」である確率が高い。どういう風に「保守的」なのか? 過激な言葉で人を驚かすのが「新しい」と思っていること自体が「保守的」なのである。 (水村早苗:『日本語で書くということ』:p25 )
  3. あたし的にいうと「Webは乳臭い」となる。ついでに書いておくとケータイもやがてはインターネットのひとつの端末でしかなくなるだろう。つまりiPhone的なものの勝利は近い――パソコンぽいケイタイってDocomoも言い始めた。