「仕事はある」という環境理解の誤り
今までの教科書的な情報化は、「仕事はある」という前提をもって行われてきました。それは意識していても、していなくてもです。この「仕事はある」という前提は、今となっては過去の遺物のような右肩上がりの経営環境を前提としているに過ぎません。西部邁は次のようにいっています。
信頼の構築による淘汰から再生へ
たとえば、今までの「情報化」は、本社や支店といった事務所にサーバーを置いて、事務所で働く社員にパソコンを配布し、事務所内のLANを構築するといった、どこかの教科書に書かれていたか、ベスト・ソリューションと呼ばれるものを担いでやってきたベンダーさんが作っていったものでしょう。
なぜコンピュータへの投資が業績の向上に結びつかないのかを深く考え分析する経営者もほとんどいません。もちろんコンピュータを売る方は「そんなことはない」といい張るだけでしょう。そして、こういうのです。
「あなたの使い方が悪いから」
しかし、この「市場のルールによるIT化の阻害」だけで、「中小建設業のIT化」の遅れをいうのも不十分なのです。それは、いくらコンピュータにお金をかけても仕事はとれないという感覚は、大なり小なり行われてきた、個々の企業における情報化投資においても存在するからです。つまり、ミクロ的な個々の経営においても、「なにかがIT化の阻害をしている」ということです。
では、自治体発注の工事に性能規定方式のような、真正の「マーケット・ソリューション」を持ちこむことが問題解決策なのかといえば、これは中小建設業の終焉を意味するだけでしかありません。
さて、このような「発注者がものを作るという視点」を維持しながらおこなう「マーケット・メカニズム」の公共工事への導入は、制限付き一般競争入札制度のように、自由競争ではなくただの指値制度にしかなれません。このような調達のシステムできちんと積算をして入札に臨む業者はいないでしょうし、この入札制度は最低制限価格を予想するギャンブル化してしまっています。落札できるのもできないのも時の運、このような市場で、どうしたらいい会社になれるのか、などと考えることは、考えること自体が無駄なことでしかありません。こうして中小建設業は思考さえもとめられてしまうのです。
それは、発注者側に「モノを作る視点」が存在し続けているためです。つまり、この入札制度を導入する発注者は、「マーケット・メカニズム」を表面に出すことで、「公共工事という問題」から自らを切り離そうとはしていますが、「公共工事という問題」に内在する発注者の機能、つまり、開発主義の文脈での公共工事の存在意義と発注者の役割は、旧来の文脈をそのまま引きずっているからです。それは、「地場経済の活性化と雇用の確保」という目的 →配分を重視したルール(ヒエラルキー・ソリューション)が、この「制限付き一般競争入札制度」でも前提となっている、ということです。でもそれは当然のことでしかありません。
ここではまず、「松阪市の制限付き一般競争入札制度導入による落札率調査表」(表3)を見てください。(出展:http://www.city.matsusaka.mie.jp/)
しかし、私たちが目にする現実は、「配分のルール」によるIT化意欲の欠如だけでは、中小建設業におけるIT化の遅れは説明できない、ということです。つまり、「配分のルール」の対極の方法として台頭してきている、自称「マーケット・ソリューション」にも、「配分のルール」と同じように「市場のルールによるIT化の阻害」をみることができるのです。