写真提供:ねぇさん
午前7時起床。浅草はくもり。なんか体調がいいぞ(気のせいか)。さて18日の夜、焼肉を食べての二軒目は、道頓堀まで移動して、江弘毅お気に入りのバー ウィスキー(BAR WHISKY)で、これまた江オススメのマティーニのロックをむりやり全員で飲む。
プロセスの酒
それはつくられる過程・プロセスの快楽で、普段バーではアイラウィスキーしか飲まないあたしは、その解釈のスピードに目を丸くしたのである。
「解釈(アンテルプレレタシオン)は貸借(アンテルプレ)を満たすために快速(ブレスト)でなければなりません。(@ジャック・ラカン)」なのだけれども、それはあたしにはまったく解釈できないスピードなのだった。
タナトスの酒
けれど解釈できないまま、それはあたしの前にやってきて、ひとくち口に含めばグッときた。というよりも、これは死ぬな、と思った。こいつはタナトスの酒なのだ。これは一端(仮想的に)あたしが死ぬ酒なんだわ、と。
であればここにも子宮的構造は働いているはずで(ほんとに死んだら洒落にもならない)、仮想的に死んだあたしは、どこかで生まれ変わるはずなのである。
それは何時だ、と。
このあとアイラを2種類呑んだあたしは、翌朝目覚めても殆ど死んでいた。身体中に醸造されたアルコールの香りが染みついていた。つまりまだ仮想的に生まれ変われないでいたのである。それはその後一日中続いた生みの苦しみであった。(つまり二日酔い)
が、今朝目覚めれば、体調も、脳みその切れも、非常にいい(と勝手に思っている)。
だからあたしは酒場へ向かう
バー(に限らず酒場)は、浅草寺のようなお手軽な子宮的構造ではない。若干時間のかかる大人の再生装置なのだ。
つまりそれは、再生に時間のかかる贈与のシステムであることで、交換の原理にうちのめされ、ボロボロになるまで働かなくちゃならないあたしらの、"こころ"が求めて止まない贈与の場所なのだ。一端死んでまた生まれ変われる。そんな快楽を求めて、だからあたしは酒場へ向かうんだろうな。
|