飲み代の代わりの本

午前7時30分起床。浅草は薄曇り。朝方8時43分頃地震があって、あたしのところも長周期地震動特有のぐるんぐるんという揺れを感じた。幸い被害は無かったけれど、以前のマンションならかなりの惨事になっていたはずの揺れだった。震源地に近い方々の無事をお祈りしたい。

さて昨晩はT君と居酒屋浩司で呑んだ。T君は時々やってくる悩み多き人だ。T君がなぜ悩み多き人なのかと言えば、彼には「中景」(依って立つ地面)がないからで、一人でいろいろと考えてはそれをあたしのところに持ち込んでくる。あたしはもっぱらその聞き役なのであって、叱咤激励するぐらいしかできやしないのだが、プレゼンテーションは相変わらず下手だな思う。

ナショナリズムの由来

さてT君は、今は無職なので貧乏でもある。ただ律儀な性格なので飲み代の代わりに本を沢山もってきたりするのだ。あたしは読む本は自分できめる人なので、そんな本はいらないよ、なのだが、どうしてももらってくれというので、彼の持ってきた本を見せてもらった。そしたら大澤真幸さんの『ナショナリズムの由来』があった。

「へぇ、あんた真幸さんを読むのかい」と訪ねれば「全然読めませんでした」なのである。正直でよろしい、なのだが、読まないのであればもったいないので、それじゃその本はあたしが貰っておきましょう、ということで、『ナショナリズムの由来』は今あたしの机の上にあったりするのである。


セカイ系

T君は昔の暴走族のように漢字を組み合わせて自分を表現するのが得意だ。しかしそれは独りよがりの意味不明でしかないのであって、フレーズにもなっていない。

では彼の説明を聞けばなにか理解できるのか、といえばそうでもなく、例えば「日本の美徳を汚した者は厳罰に処すというような議員立法を提案している」というようなことを言う(その立法案にも摩訶不思議な漢字の組み合わせの名前をつけている)。

それじゃ「日本の美徳とはなんでしょうね」とあたしに尋ねられば、「それは恥の文化だ」とは答える。それじゃ「文化というものは法律で守るものなのかね」とあたしに突っ込まれれば、そこで彼のプレゼンは止まってしまうのである。

一時が万事こんな調子で、それはあたし的はかなり面白い時間なのだが、しかしこのママじゃ彼は辛いなと思う。それは基体の無さ、思考の基礎体力不足への心配なわけで、あたしの感じる限りT君は典型的なセカイ系なのだ。

本をよく読んでいるようなので、それなりの勉強はしているのだろう。いろんな言葉を断片的に知っている。しかしその知識にはリアリティが無いのである。

バロックの館このリアリティの無さは、あたしが比較的若い世代の「個人」を強調する方々に感じるモノで、あたし的には、最大の困ったもんだ、であるのだけれど、なぜリアリティが欠如しているのかといえば、彼らには「中景」つまりバロックの館の一階部分がないからだ。

とてつもなく孤独な「個人」

近代化の過程は、ムラ社会的な共同体(おぼんのような世界)から、個人(自分)の輪郭を作り出す(はっきりさせる)過程のようなものだが、日本人の多くはある意味近代化を終えているのである。

それは個人というには、とてつもなく孤独な「個」であって、それが「個人」の名のもとに大量に生産されたのが日本の近代化なのだと(あたしは)思う。その孤独は「モナド」でもなく、だから剥き出しの魂の接続もない。なぜなら彼らは一階のない(つながる窓を持たない)宙ぶらりんの二階だからだ。

遠景・中景・近景

セカイ系がサブカルチャーの分野で機能するなら、ビジネスとして成功する可能性もあるだろう(オタク的にね)。しかしある思想をもって、啓蒙的なことをやろうとすると、思考の基礎体力の無さはすべてのプレゼンを台無しにしてしまうのだ。

そしてプレゼン的に失敗してしまうことで、賛同者を得られない彼は、孤独のスパイラルから出られないでいる。プレゼンテーションで一番重要なものは「データ」でしかないのに、T君にはリアリティというデータが徹底的に欠乏している。あたしは失礼を承知であえてこう言った。

「君はこんな時代に生まれてくるよりも、お前は職人になれ、と決めつけられるような社会に生まれてた方が幸せだったかもしれないね」と。