北海キング
北海キング from 奈井江町


北海キング午前5時30分起床。浅草はくもり。砂子さんから、奈井江町産のメロン「北海キング」をいただいた。

食べ頃になるまで若干待って、冷蔵庫で冷やして食べた赤肉のそれは、北の大地の夏の味がした(今年はちょっとせつない味か?)。 

あたしらの世代にとって、表面に網のかかったメロンは、高級品の代名詞のようなもので、(あたしは)縁あって北海道に足繁く通うになってから、こうして毎年網のあるメロンを食べさせていただいているけれど、自分で買って食べたことは一度もない。

つまりあたしにとってのメロンは「贈与」の代名詞のようなものなのであって、「いつもありがとうございます。おかげさまで今年もメロンが食えました。」なのである。

その「贈与」としての北海キングは、品種的には夕張メロンと同じものだろうが(たぶん)、あたしには味の違いはわからない。

昨今、食材に関しては、やたらとナショナリズム(国産偏重)の傾向が強い。けれどメロンはさらにべらぼうなのであって、ナショナリズムどころか、テリトリー(地勢)としてのブランド分けがすすんでいる。

例えば今の時期なら、浅草のスーパーの店頭には桃が出始めているが、それらは「山梨県産」や「福島県産」というタグ付けがされている。しかし北海道のメロンには、「北海道産メロン」という「タグ」はないのであって、都道府県単位よりもかなり小さなテリトリー(つまりパトリ)での差別化がすすんでいる。

この傾向は、メロンに限らず高級食材でその志向が強いのはご存知の通りで、例えば牛肉はその典型だけれども、それは江弘毅が時々使う語彙「テロワール」ってことなんだろうか、と。

それはマーケティング的にはブランド戦略なんだと言う人もいるけれど(それも一理あるけれど)、そんなことより、「テロワール」や「パトリ」という概念自体に、日本人の心の琴線に触れるものがあるのだ、と(あたしは)考えている。

日本人のもつ共同体性の基体は暦と地図なのであって、つまりは地勢的なのだ(パトリ)。それは無意識層に沈殿された記憶であり、意識しようがしまいがお構いなしに機能する(つまり〈欲望〉)。

ましてやリアルな世界での地勢的共同体性の破壊がすすめば、無意識層からの「パトリ」への〈欲望〉はより強く湧き出てくるだろう。それが〈産地〉への欲望なのだ、と。

その昔、なにをどうしようが(殆どが)地産地消でしかない時代には、産地なんて気にする必要もなかったのである。それは信頼というよりも日常としての安心社会でしかないかもしれないが、あたし達の無意識層の基体はこれだろう。

だから、その小さな「おぼんのような世界」(地産地消)が機能しなくなったとき、「産地」は「安心」と同義語で機能するのだし(それは「信頼」でもある)、産地偽装なんてことも起きる(「産地」への〈欲望〉がなければ偽装しても意味はない)。

しかし「産地」も、(あたしらにとっては)ほんとは、なんだかわからないものなのである。それは印刷されたシール1枚なのだから。そのシール1枚に信頼を築くことを北海道のメロン生産農家は黙々と続けてきたのだな、と思うと、いただいたメロンに張られた「北海キング」というベタなシール一枚に、「町内会がしっかりしていれば大丈夫!」を感じるのである。