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『貧困大国ニッポン 2割の日本人が年収200万円以下』(門倉貴史)を読む。

貧困大国ニッポン

貧困大国ニッポン 2割の日本人が年収200万円以下 [宝島社新書] (宝島社新書 273)

門倉貴史+賃金クライシス取材班
2008年6月23日
宝島新書
648円+税


午前6時起床。浅草は晴れ。なにか異様に蒸し暑い朝だ。順番は逆になってしまったが、『貧困大国ニッポン』は、盛岡行きの新幹線の中で読んでいた本で、(下手な表現ですいませんなのだが)山谷近くに住んでいるあたし(もしくは、個人事業主であるあたし、建設業界で生きているあたし)には、今更のことなのだけれど、改めて深く暗くなった本だ。つまりそれだけリアリティあるリポートだということだろう。

先日、盛岡駅構内の書店に入ったら、ワーキングプア、格差社会、プレカリアート関係の書籍が、入り口近くの一番いい場所に平積みにされていた。それは、この手の書籍が「負け組関連」とでもいうようなジャンルを構成し、地方都市でも(からこそか?)それなりに売れているということなんだろうが、これを買うのは「負け組」じゃないだろう、と。「負け組」はこんなもんにお金は使わない、と?

昨日の東京新聞には竹中平蔵さんのインタビュー記事があり、相も変わらずに、格差はない、問題は不平等だ、と宣っていた。そして、不平等をなくすにには、構造改革を進めなくてはならない、と。

それはつまり、賃金(富の配分)の不平等が起こるのは、既得権益者(つまり高給取りの正規雇用社員)が自分の利権を守ろうとしているからだ、という(どこかで聞いた…たぶん玄田有史さんか?)理論なのだけれど、だからその既得権益を破壊するために、構造改革を推進しなくてはならない、と、格差問題をいつのまにか平藏さんお得意のスパイト理論、つまり嫉妬の経済学へ転換しているというトリックスターぶり。

あげくの果てには「負の所得税」を持ち出すのだけれども、それは小沢さんとどこが違うのか、と突っ込みたくもなる(そもそもたいして違わないのだが)。

類・種・個あたしが「負の所得税」を嫌うのは、そして格差の解消を国家に求めるプレカリアートにあまり共感できないのは、国家が個人を助けるのは緊急避難であって(今はその状況だろうが)、それが常態化するのは財政的に無理なことでしかないからだ。

国家が手を差し伸べるべきは「種」(共同体)であるべきで、つまり個人を助けるのは国家(類)ではなく暦と地図を持った「種」としての社会(共同体)だろう。「町内会がしっかりしていれば大丈夫!」なのである。個人を助ける力を「種」を護持するために国家(類)は「種」に社会的投資を行う。問題なのは国家と個人が直結してしまうこと(幻想)であり、その中間にある社会の厚みがなくなってきていることなのだ、と。それが「種の論理」をいうあたしの考え方だ。

人間、どこかで楽観でなくては、生きていくのも厭になってしまうでしょうが、「街的」は、なんの保証もない「広義の自営業者」が、明日も生きるための「楽観」を生み出す装置なんですよ(たぶん)。だから「街的」はしぶとい。「街的」はめげない。「街的」はむやみに生きる。[「武士道」「品格」が日本をダメにする? from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡]

あたしは格差はある、と思っているし、貧乏もある、と思っている。格差も貧乏も受け入れなくてはならない現実としてある。しかし格差や貧乏を克服しようとするモチベーションはあって当然だ、とも思っているし、仮に経済的に失敗しても当事者が居場所を失わない、再出発が可能な社会がなくてはならないと考えている。

そして政治・経済学というのは、その人間のモチベーションの持たせ方の理論体系、OSなのだと思う。しかし、実際に個人にモチベーションを与えられるのは「種」(=あたしが「中景」と呼んでいるもの=地域社会、会社、学校、協会 and etc.)でしかない。

だからこそ、そのモチベーションに、「嫉妬」なんてものをトリガーとして持ち込もうとする、あらゆる政治・経済学的立場を容認する気はさらさらないし、「経済的」に失敗した人が「社会的」に居場所を失うような政治・経済学的立場を容認する気もさらさらない(というか、それを目指さない政治・経済学なんてなんの意味があるのか)。

今必要なのは(例えば「街的」のような)社会的な厚みなのだと(あたしは)思う。だからその社会的厚みの護持のために、あたしは地場の建設業を、地場の公共事業という産業を擁護してきたに過ぎない(それは既存の経済的ヘタレ体質からの脱却を伴うことで容易なことではないのだが)。

普遍経済学経済は合理性を求める。これは仕方がないけれど、人間は合理性だけでは生きてはいけない。その不合理性の引受先が社会なのであって経済ではない。しかし社会に経済原理を持ち込む心象を(あたしたちは)もってしまったことで、この国は逃げ場を失っているのじゃないだろうか。

エコノミックアニマルは仕事中毒ではなく、本当に経済合理性に生きるだけの動物と化したのかもしれない。

小泉さんは「痛みを伴う構造改革」と言ったのである。多くの国民は、なんだか分からないままそれを信じて、自分の身に起こる痛みを我慢すれば、やがてシアワセが見えるのだろう、と思った(のか?)。

それは共同体を破壊し国家と個人を直結させることには成功したかもしれないが、その結果が毎年3万人を越える自殺者と、「2割の日本人が年収200万円以下」なのだとすれば、そして個人を擁護すべき「種」の衰退だとすれば、それが年間3兆円か4兆円程度(たぶん)の経済成長と比べて、安いものだ、と言える日本人は、どれぐらいいるのだろうか。

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