午前7時起床。浅草は雨。昨日というか今朝方まで、夜なべをして往復書簡の返信を書いた。
それは、なぜあたしは「街的」を地方の建設業に啓蒙するのか、ということなのだが、それはまた、どうしたら、地方の公共事業は、経済合理性で考えるものではなくなるのか、という根源的な問いだ。
それがなぜ根源的な問いなのかは、建設業の皆さんには今更だろうが、つまり地方の建設業の疲弊は、経済合理性(交換の原理=例えば一般競争入札)ばかりが強調される社会的な心象にあるからだし、そもそも人間は合理性だけの生き物ではないからだ。
そんなに難しくは書いていないつもりなので、是非、往復書簡を読んで欲しいのだわ。
Comments [2]
No.1ryogoさん
日本のとある大企業は「企業経営で経済合理主義は一番大事であるが、どんな素晴らしい取り組みも行き過ぎれば大きな弊害が出てくる。」と述べているし、藤木隆宏東京大学教授は『常識的な経済合理主義』が最も大切と話している。
常識的な経済合理主義とはどんなものなのでしょうか?
少なからず一般競争入札は常識的ではないと思います。
No.2ももちさん
>ryogoさん
>常識的な経済合理主義とはどんなものなのでしょうか?
例えば、アダム・スミスのテーゼは「個々人が私利私欲を追求するに任せておけば、社会全体の福利(ウェルフェア)は最大限に高まる」ですが、このテーゼが機能するためには、利己性(自己関心:セルフ・インタレスト)に加えて「共感シンパシー」が必要だとスミスは言っていますね。つまりそれは「信頼」の情報です。
しかし新古典主義経済学は、このこと(信頼)をナイーブに無視してしまったわけで(なぜなら数学的に表記できないからでしかないのですが)、これは人間が行う交換を、「経済的な交換」だけに絞り込んでしまった故の狭い視野です。
交換には。「経済的な交換」よりもさらに広い範疇をもった「社会的交換」があります。それが「贈与」ですね。経済的な交換は、贈与の特殊パターンです。
あたしはそれを、人間の非合理性と考えていますし、普遍経済額的には「贈与」の存在しない交換は、破綻するしかないと考えています。