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『世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」』 岡本薫 を読む。

世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」 (ちくま新書)

世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」 (ちくま新書)

岡本 薫(著)
2009年4月10日
筑摩書房
740円+税


価値的相対主義者

岡本薫さんは、曰く、「価値的相対主義者」なんだそうで、『「日本はこっちに向かうべきだ」とか「これが正義だ」といった方向性を絶対に提案・主張しないので、世の中の人々がすべてロジカルに思考・行動していれば全く出番はなく、世の中の役に立たない人間だ。』(p235)と牽制球を投げてくる。

だから「わからない」とは絶対にいわないし、「わかった」ともいわない。ただ「私にはそうみえる」を書き続ける人のようで、そこにあるのは思考の実験、書く悦楽である。

これは書いている方は楽しいにきまっている。しかし読んでいる方は、著者との思考軸というか考えるプロセスがちょとでもずれると、全くダメになりそうなテクストなのであって、この本、賛/否は極端だろうなと思う。

なにしろ書かれてること(「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」)は岡本さんの主義・主張ではないのである。客観的な分析・描写であり、その優劣を論じてはいないのであるから。

象徴界に「世間」がいる

そんな岡本さんが(本書で)いっていることは、じつはあたしとあんまりかわらないところから始まっていて、というかその始まりの部分(つまり共通理解部分)の説明が殆どなので、あたしの解釈は快速(といういか退屈)なのだけれども、その解釈をトポロジックに表現すればこうなる。ようは日本人の象徴界には「世間」が居座っているということだ。※1

ボロメオの結び目「町内会主義」ボロメオの結び目「世間さまが許さない!」
左:桃知:「町内会が許さない!」         右:岡本:「世間さまが許さない!」

日本的モラリズムとは?

  1. 多くの日本人はあらゆる問題を、ルールやインセンティブ構造などの「システムの問題」としえではなく「モラルの問題」=「人々の心・意識の問題」として考える傾向を持つ。
  2. 日本人の多くは、著者が「同質性の進行」と名付けたもの(「みんなが同じ『心』をもてるはずだ」と思い込む発想)を持っているが、その一環として「みんなが同じ『モラル感覚』を共有しているはずだ(べきだ)と考えている。非宗教的な「世間さまの基準」ということが、「日本的モラルズム」の第二の特徴。
  3. 日本人の多くは「憲法で保障された自由を認めずモラルを優先する」という傾向を持つ。その典型が、「ルール違反でない他人の行動を、モラルを根拠として避難する」。「モラル」を「超ルール的正義」とした「自由の無視」が、「日本的モラリズム」の第三の特徴。
  4. 日本人の多くは「民主主義のシステムで作られたルールを無視してモラルを優先する」という傾向を持つ。「モラル」を「超ルール的正義」とした「ルールの無視」が、「日本的モラリズム」の第三の特徴。
    (p242~242を要約)

だから日本人の象徴界に、無理矢理、そもそもキリスト教が象徴界に居座っている西洋の「自由と民主主義」を形式的に持ち込んでもうまくいかない、というか、日本人には向かないというのである。

だから「自由と民主主義」などという無理をせず、あたしらの好きな「世間さまが許さない!」主義=「日本的モラリズム」でやればいいんじゃないのというのである。最終章にある「世間さま院」の提案は爆笑もので読める(といっても岡本さんはふざけているわけではない。極めてまじめであるのだが)。

「世間」という象徴界
もしくは「世間」になりたいモノたち

あたしは岡本さんがいっていることは、80%ぐらいは「了解」であるのは当然として、けれど20%が「NG」なのは、あたしは「世間」を信じていないからだ。

あたしは、象徴界は「中景」「種」「街的」「町内会」(これらはいってみれば狭義の「世間」である)が機能すべきだと考えているわけで、岡本さんのいう広義の「世間」という、「街的」や「町内会」よりも広い、境界のない、わけのわからないものが象徴界であることが不安なのである(「街的」や「町内会」だって十分わけがわからないのに)。テレビ村のことである。 

しかしそれは「世間」に対する不信というよりも、「世間」を装って象徴界に居座ろうとするものへの懐疑心である。

新聞のテクストが読むに値しないのは「私は、思う」がないからで、それは公正な言論という装いためなのだろうが、ほんとは「私は、思う」でしかない言葉(思想)を、「私は、思う」を棚に上げてしまうことで、テクストを「顔なし」にしようとする。

「顔なし」とは、ルネ・マグリットが 『夢の解釈』で表徴してみせた、万人のシニフィアンへの欲望である。

それが世間であり「みんな」であることで、マスコミは世論を動かせる力を持つのだけれども、「私は」と書く人は、自らを語ることで、言葉(思想)を〈他者〉(読者)に届けるしかなく、しかしそれは「私は、思う」だけ(の文体)ではできない。※2

この「懐疑心」に科学的根拠はない。ただこの非論理性をあたしがいい続けている理由は単純で、それはあたしの職業的な「種」(パトリ)である地方の建設業界や地方――これこそ「日本的モラル」の巣窟であった――が、他ならぬ「世間」の後押しによて壊されてしまったからである。

小泉さんと世間とスパイトと。

その「世間」とは小泉さんが煽ったものでしかなく、小泉さんは「世間」とほぼイコールであった。それを「ポピュリズム」というのだろうが、しかし「世間」は、かつて小泉さんに熱狂したことなどほとんど覚えていないだろうし、破壊されて疲弊しジャスコしかなくなってしまった地方を還りみることもないだろう。つまり無責任なのである。

しかし自分だけは特別安全な「世間」にいると思っていた「みんな」は、自分の身に火の粉が降りかかってはじめて、だまされた、自分は特別な(安全圏にいる)「世間」じゃなかったと気づいているのである。そして「銭をくれー」はヘタレである。

小泉さんが「世間」になり得たのは、それが「自由と民主主義」を全面的にフューチャーしていたからだろう。

それはかろうじて残っていた「中景」(狭義の「世間」)が、遺物化――硬直化した円環になってしまていたからであって、「世間」にとっての鬱陶しいもの、なんだかわからないもの、「お盆のような世界」でしかなかったからであって、それはあたしも認める。しかしそれを修正するのではなく、ただ闇雲に破壊してしまったのだ。「世間」の嫉妬(スパイト)行動に取り入って。※3

利己的な日本人に中景なき世間は広すぎる

西欧生まれの「自由と民主主義」は、人間の多様性を認めているようで認めてはいないのである。それは「自由と民主主義」が一神教であるキリスト教的モラルを基底としていることで、キリスト者以外の異端、差異を認めないのは、岡本さんのご指摘のとおりだ。

だから「中景」の縛りのない「世間」に入り込んでくる「自由と民主主義」はかえって多様性を消失させてしまう。町内会は狭いから町内会なのであって、でっかい町内会のような「世間」は始末にこまるのである。テレビ村のことである。

それに比べれば八百万の神々(多神教)というか、理由もなく無思想で育ち生きているあたしらは、これはどうしようもなく出鱈目なご都合主義者であって、日本人はアメリカ人よりも利己的であることは山岸俊男先生に教わったことだ。※4

しかしあたしらが持って生まれてしまった利己性は、隠れ利己性というようなもので、多くはそれを剥き出しにすることはない。建前と本音は違うというあれである。自ら表面切ることを嫌う利己性である。「中景」(「街的」や「町内会」)はそれを隠す(もしくは牽制する)装置のようなものだ。

しかしそれ(「中景」)が機能しないと、みんなバラバラにされるよ、みんなバラバラだと寂しいし不安だよ、なにかを象徴にして利己性だけで連帯してしまうよ、それは利他性(自己犠牲故の連帯)という虚偽を纏いかねないよと。その象徴が小泉さんだったのだけれども、あの程度のものでも被害は甚大なのである。

つまりキリスト教的に神様という留め金のないところに、ただ「自由と民主主義」を持ち込んだところで「自由と民主主義」にはならないのであって、ただ「みんな」はバラバラの個でしかなく、それは利己性剥き出しに自分勝手に生きることのできる人には有利な世の中にはなるけれども、利己性を剥き出しに出来ない人(つまり「世間」)だっているわけで(というか遙かに多い)、そういうあたしらは利己性を剥き出しになることが不安故にどうしても「集う」のである。隠れたいのである。

その「集う」人々、「みんな」、「世間」が、利己性剥き出しで自分勝手に生きることのできる人たちに、いいように集わさせられ、利用されるのはまっぴら御免なのである。

だから「世間」は「世間」でいいのだけれども、それがだだ広いものであるなら、象徴になりたいモノには都合がいいとうだけのことでしかなく、それは厭だから「中景」(「街的」や「町内会」を機能させなくてはならないと(あたしは)思うのだ。もちろんこれは 「価値的相対主義者」のことばではなく「街的」なことばであるけれど。 ということで午前7時起床。浅草は雨。

※注記

  1. もちろん岡本さんは「象徴界」という語彙は使わないけれど、この解釈でほぼ間違いはない(たぶん)。 このあたしの解釈の方法は、ラカンの精神分析をベースにしているのだけれど、なにがラカン派なのかは自分でもよくわからない。ただ例の「ボロメオの結び目」を解釈のために多用するということだ。トポロジックな解釈は理解が快速なのである。ただそれだけのことである。
  2. 『経済成長という病―退化に生きる、我ら』 平川克美を読む。 参照 
  3. パイト行動(嫉妬)につける薬―[田中 秀征:行政改革と公務員改革の灯を消してはならない]を読んで。 参照
  4. 浅草は利己的な街なのである。だからこそ戦略的に利他的なのである。 参照

Comments [3]

No.1

>しかしそれは「世間」に対する不信というよりも、「世間」を装って象徴界に居座ろうとするものへの懐疑心である。


いつも面白く拝見しております。
ただ、いくら読んでも、読めば読むほど、ももちさんが説明すればするほど、世間というものがわからなくなります。(困りました。これはもちろんわたしの鈍感な脳みそがももちさんの快速についていけないからです)
ところで上のご発言ですが、わたしはそれをももちさんのお友達の江さんに感じました。
ひょっとして江さんにとっては街場とか街的というもの、 ももちさんのいう「小世間」なんじゃないでしょうか。たまねぎの皮の真ん中より少々中心に近いところの世間じゃないのでしょうか?
だから江さんは以下のようなことを平気でいえる。つまり、たまねぎの皮の一番表層である、ミシェランの読者を「読者」とひとくくりにしてしまって、

>読者は消費者でさもしいから、その星情報により、クリック1発で予約をいれ、店をアクセスして消費しようとする。誠にいやしい、

あららです。
わたしなんか貧乏人でもミシェランを楽しく読んでます。それを「さもしい」「いやしい」と一律に規定されると、むっとしますね。街場なんかを語る人間にとって一番やってはいけないところ、陥りやすいところが出てきたなと思ってしまいます。
なんとなれば、ほんとうは街場なんていうものは街場のことばでしか語れないものなんではないでしょうか?
思想や哲学用語で「街場」を語ることの矛盾とおかしさ。
そんなのごまかしだし、ウソですよ。ほんとうに街場に生息している人はすぐに見抜きますよ。ああ、この人は街場のことばで語っていないなと。
街場は街場の言葉で語らなきゃ。街場の言葉とはその大半は沈黙ですよ。それを忘れるから、世間様を一律に規定して、
「さもしい」だの「いやしい」だのといってしまう。こういうことばは街場の人は決して語らないものなんじゃないでしょうか?

その旨、疑問を感じたので、江さんにコメントを入れましたが、どうもお気に召さなかったようでコメント欄には紹介されませんでした。(笑)

>「世間」を装って象徴界に居座ろうとするもの

いったいだれのことでしょうか。


No.2

>Chiave さん

コメントありがとうございます。
返信を書くのに時間がかかりそうなので少々お時間をくださいませ。

No.3

ももちさま

わざわざ畏れ入ります。
どうかお気になさらないでください。
あのような雑なコメントにわざわざ返事を下さるとは予期しておりませんでしただけに、ていねいなコメントをいただきその誠実に驚いております。

さて、調子にのって追加のコメントが許されるなら、前回の見解に若干付け足すことをお許しください。

いまここに何らかの罪を犯したもの、たとえばパンを盗んだ窃盗犯がいるとします。
被告aは裁判官に対して「腹が減ってたんだよ。しょうがねえじゃねえか。背に腹は代えられねえや。これからも腹が減ったら、またやるかもしれねえよ」と正直に告白するものとします。

一方、被告bは裁判官に対して「心から反省しております。人の物を盗むことはたいへん悪いことです。これからは心を入れ替えて深く反省の日々を送ります」とその場しのぎのウソをついたとします。

裁判官は正直な心情を隠さずに吐露したaに寛大な判決を言い渡すでしょうか?
もちろんノーだとおもいます。逆に改悛の情なしとしみられてaの刑は重くなるはずです。
一方、ウソをついている可能性のあるbはどうか。おそらく裁判官はその場しのぎのbにこそ情状酌量を認めるでしょう。つまりbのほうが量刑は軽くなる。そのようなことが日常、裁判所においてふつうに行われております。

ことばに倫理的であってウソ偽りのないaはわたしからみれば人間として信頼できる人物であるといえます。一方わたしはbが信用できません。かれはまた盗みをやる可能性があります。にもかかわらずその場しのぎの調子のいいことばを語るbのほうがどのような裁判においても量刑が軽くなるように裁判の仕組みはできている。
これはどうしてでしょう?

裁判官は被告が正直で他者に対してウソをつかない倫理的な人物であるかどうかは、どうでもいいのですね。
そうではなく、社会に対して服従する心があるかどうかをみるわけです。じっさいに改悛しているかどうかなんてことはどうでもいい。ウソをついてでも改悛している風をみせるその権力・権威・社会にたいする服従心だけをみて量刑を決めるのです。

わたしにいわせるとこの後者のbの、服従のことばが「世間」のことばです。そしてaの自己と他者に対して偽りのない倫理的なことばが「街場」のことばです。ですから、街場ではbのような態度、人物はきっとモテません。あまり歓迎されません。一方、世間では忌み嫌われることの多いaのような倫理的な人物こそが案外、街場では歓迎されます。

このように逆立した関係にある「世間」と「街場」のことばの世界において「街場」の倫理のことばが服従のことばで成り立つ「世間」に向かって自己を説明するとはいったいどういうことでしょうか?
あまりにもばかばかしい背理ではないでしょうか? 

そもそも「街場」のことばとは「世間」では語られてはいけないものなのです。フーテンの寅さんのように、そこには必ず対立があり無理解があるのです。
にもかかわらず、世間に向かって「街場」理解を求めること、それは「世間」に己の承認を求めているという意味で「街場」への裏切りであると同時に、「街場」というスタンスで「世間」を装うという二重に「街場」をそこなう言語道断な行為であるとしかわたしには思えないのです。

そもそも「街場」に内田樹氏のような哲学・思想を世間に喧伝するものが介入すること自体がおかしいとわたしは思っています。「街場」というものは哲学・思想という狭い世界観がぬるっと入り込めるような生易しいものではないのじゃなかろうか。
舐めるにもほどがある、安く踏んでくれたものだ。

江さんは哲学・思想用語で街場を語ったその瞬間にじつは街場から一歩出たのです。
そのことを自覚した上での「街場」論ならわたしも許容できたでしょう。しかしあまりにも虫がよすぎる。
かれは二兎を追っている。
「街場」はそんな調子のいい者を自動的にはじき出すでしょう。街場は服従を強要する「世間」の論理にはその生い立ちからして反抗するようになっているのです。
つまりももちさんのいう結界を結んでいるのです。

もっとも江さんや内田樹氏のいう「街場」とはほんとうの「街場」ではないとわたしはみています。
「街場」はかぎりなく縮小しています。それこそ倫理だけが成り立つ窮屈な世界ですから、こんな寒々とした心をもたねば生きていけない時代には息もたえだえなんです。
そういう状況の足元をみて、擬似「街場」を吹聴する者があらわれた、とわたしはみています。

どうしてそんなことをするのか?
それはおそらく「街場」と「世間」の両方にまたがって居座ることを欲望するなにかなのでしょうけど、またそのことについては感想を申し述べさせていただきたいと考えております。

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