イメージはいつでも雄弁だが、ここに一枚のフラダンスの写真があって、そこから読み取れる最初のものはハワイ的であるだろう。

しかしハワイ的というのは、ハワイに行ったことのないあたしにとって、すべては後付けのイメージにしか過ぎず、ましてやあたしはかつて福島県中通りに棲んでいて、そこには何度もいったことがあり、この写真がそこのものであることは直ぐにわかる。つまりスパリゾート・ハワイアンズである。 http://www.hawaiians.co.jp/show/


それどころか、ハワイに行ったことのないあたしは、テレビから流れるハワイの映像をみても、それはハワイアンズのシミュラークルでしかなくなっている(主客逆転)というべらぼうさであって、つまり(あたしにとっての)ハワイとはハワイアンズ的なところなのである。

ハワイ的とは「常夏の楽園」である。楽園――なんと魅力的な響きだろう。あたしのハワイ的は楽園なのである。

しかしハワイ的がハワイアンズ的でしかないあたしにとって、「常夏の楽園」とは、ただハワイアンズのことなのである。あー、「常夏の楽園」にまたいってみたい。 

最初にハワイアンズに行ったのは30年も前のことだろうか。ハワイアンズ(あたしがはじめてそこに行ったときには常磐ハワイアンセンターという名前だったと思う)は、あたしの近くて、しかし唯一の「常夏の楽園」であった。もちろん映画『フラガール』に教えられるまでもなく、その生い立ちも聞かされていた。

足繁く通っていた――ことで、あたしの「常夏の楽園」の思い出は、この小さなハワイのアジール性に修練している。

それは福島県の海側にある「ハワイ」(最初に行ったときは直ぐ近くの炭鉱の街にあるハワイ)という突拍子も無さだけれども、(今だからこそ書ける――認識できる)結界である。

異邦人であることを擬似的に楽しめる時空が、浅草寺の子宮的構造のようにぽっかりと口をあけてまっている。※1 つまりそこへ行き、そこから帰ってくる一つの中心、そこを夢み、そこへおもむきそこから取ってかえす、一口にそこで己を発見する一つの完全な場所である。ということで午前6時起床。浅草は晴れ。

アジールとしての街場は、その空間に迷い込んだ(逃げ込んだ)人々の、自由の尊厳、差異の尊重、個性の重視、共同体との断絶を保証するために、むしろ共同体性を強めます。

保証するために結界を張らないといけない。

結界を張ることによって、人々の〈欲望〉の対象である、自由の尊厳、差異の尊重、個性の重視、共同体との断絶を保証する。

これは客商売の究極のかたちだとあたしは思っています。※2

※注記

  1. 子宮的構造 参照
  2. 『ミシュランさん、一見さんお断りどす』を読みました。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡 参照

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