『低度情報化社会』 コモエスタ坂本を読む。

午前6時50分起床。浅草はくもり。 これは11月2日、盛岡駅構内の店で購入し、帰りの新幹線で読んでいたものだ。

結論から

人は、現実世界でさまざまな期待や不安を抱いている。そして、なんとなくバーチャルな印象で解決策 resolution を考えている。そしてそれが具体化し、問題が解消されてしまった時点で、それは単なる“グループウェア"と化す。既存の狭い共同体 community における便利な普通の道具に過ぎず、その共同体を超えた広がりを持ち得なくなるのである。つまるところ、あなたが今所属している狭い共同体のあり方・やり方を踏襲していくだけでは、決して未来は開かれないのだ。低度化くんはもちろん、普通の人間でも、だいたいはこの「従来の枠」から逃れることは出来ない。だからこそ、増殖してきた低度化くんたちから足を引っぱられ、あなたの属する共同体は、思う以上に沈殿していってしまう。そんな未来のない共同体と一緒に沈殿したくないならば、別種の共同体のあり方・やり方を模索 seek する方が、はるかに健全だし、実はそちらの方が生きていきやすいということを理解してほしい。また今までと同じ仕事やテーマに向かい続けるにしても、発想 idea を変え、アプローチを変え、方法論 mcthodology を変える。その感覚を持つとともに、自分の本来性を変えないことが最も重要だ、と私は考えている。(p234)

私は、この一文をもって、この本の結論と理解していると同時に、これを支持したい。つまりこのことは、基本的には私の2.0的社会の歩き方(地域再生、事業者団体ベース・企業ベースのIT化)と同じアプローチであり、今と云う時代に、共同体としての閉じと開き――つまり「ひねり」――の必要性を指摘していると云うことだろう。

ただ、「自分の本来性を変えない」と云うのは、じつはとても難しくて、それは何らかの基底(種的基体)の上に成り立っていることを理解しないと、終わり無き自分探しの旅で一生を終えてしまうことになりかねないのだが、この部分(つまり個と種の関係)に関しては、あまり言及はされていないように思う――つまり、この本は種的基体なき個(それは個体化できないモノでしかないのだが)の存在を前提にしている(つまり「象徴の貧困」である)、と云うことだろう――。

アジテーション

この本は上の結論部分を除けば、コモエスタ坂本氏が「低度化くん」と呼ぶ人々(つまりはぶれない軸としての大衆であろう・種的基体なき個のようなもの)へのアジテーションに満ちている。

インターネットにはゴミ情報しかないと言われたのは、もはや過去の話だ。現在のネットは、学術機関などのデータベースが充実し、宝の山となっている。しかし、その宝を使える人間はどこにもいない。なぜなら、IT技術の進歩で情報爆発が起きた結果、何が重要で必要な情報なのか、誰も判断できなくなってしまったからだ。個々人は自分の理解できる情報(つまりレベルの低い情報)だけに手を出し、簡単に充足してしまう。ジャンク情報だけでお腹いっぱいだから、もはやレベルの高い情報の存在には気づかない。そしてゴミのような意見をブログで公表し、さらにジャンク情報は増殖していく。ネットはレベルの低い同類同士の交信を加速させ、情報のぬるま湯に浸った低レベル人間を大量に作り出してしまった。つまり、Webは進化どころか、明らかに退化しており、そして社会そのものも劣化させているのである。(裏表紙より)

その手法は、インターネットの負の面を並べ立てることでしかないのだが、私的には違和感は少ない内容であり、大筋で坂本氏の発した警告には同意できる――細かい相違点を云えばきりがないのだけれども(〈進化/退化〉の不用意な使い方なんかものね)――。

低度化くんと「象徴の貧困」

「低度化くん」たちのみせる現象は、たとえば(私の理解では)、ベルナール・スティグレールの云う『象徴の貧困』のことだろうし、中沢新一が云う「ハイブリッドの氾濫」であるのだろうし、社会学の方たちの云う、象徴界や中景の喪失した今と云う時代が見せる一つの現象であるだろう。

マラルメ詩が小さな帆船に乗り込んで漕ぎ出した、近代の荒れ狂う多様体の海は、百年後には比較的穏やかな乱流となって、表層の全域にそのカオスの運動を繰り広げるようになった。そのことは、もはや「高踏的」な知的エリートばかりではなく、インターネットを手にした多くの大衆の体験し、知ることとなったのだ。マラルメはその多様体の隅々にいたるまで意識のネットワークを張り巡らせ、大切な接続点でおこっていることのすべてを言語化しようと努力した。これに対してネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現を行っているに過ぎない。それはとりたててすばらしいことではないが、かといって陳腐なことでもない。ハイブリッドの氾濫、それはまぎれもない現実であり、十九世紀にマラルメのような人物がはじめて意識した問題は、いまや今日の大衆の実感になっている。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p365)

Web2.0と云う、時代の指し示し
バズワード

それが今と云う時代を指し示すものであるなら、それを「Web2.0の時代」と呼んでもいいだろうし、それはイカサマだろうがなんだろうが、現実化するWebとして存在している――コモエスタ坂本氏はWeb2.0をイカサマなバズワードだと(あえて)云っているけれども、それも今更なので、(私は)Web2.0を、イカサマがイカサマなのかなんなのかわからなくなる時代を象徴する言葉として使っている――。

圧倒的多数としての「低度化くん」たち

この本は、それらのことを、実際に起きた事象の記述をもって「低度化くん」たちに警告しようとする。それは(あえて)「低度化くん」でも読めるように、そして(あえて)アジテーションするようには書かれているいるけれども、「低度化くん」たちに、この情報発信はどこまで届くのだろうか。そもそも「低度化くん」たちは本を読むのだろうか、と云う疑問が私にはある。

『象徴の貧困』のような本を読む気になりまた読む力の以上、現在では非常に限られた規模の社会カテゴリーを代表しているのだということを忘れないでいただきたいと私は言いたいのです。そのようなカテゴリーは、よほど想定‐外のことでも起きない限り、おそらく絶滅の一途をたどるでしょうから。(スティグレール:p180)

もし「低度化くん」たちが、この本を読んだとして、反省の次元を経由しない思考方法――これを思考方法と呼ぶのは言語矛盾であって(だって思考しないのだから)、やっぱり反射なのだろうね――しか持たない彼(女)らは、どのように反応するのだろうかは興味のあるところだ。

(私は)多くは反応できても行動はできないのじゃないだろうかと思う。それは私の活動でも、最もネガティブな問題として、ずっと存在し続けている問題であるからだ。