ZIPPOが機内持ち込みできなかったこと。若しくは、失われる〈自由〉について。

改造ZIPPO

オイルタンク式ZIPPO愛用のZIPPOへオイルを補充していて、先週、羽田空港の手荷物検査場でのことを思い出していた。

普通のZIPPOなら1個までは手荷物として機内に持ち込みはできるが、今回はだめだったのである。なぜ私のジッポがだめだったのかといえば、オイルタンク仕様に改造されているからだ。

航空法が改正されてから、機内持ち込み品のチェックは厳しくなるばかりで、オイルタンク式のライターは、原則機内に持ち込みできない。

失われる自由

オイルタンク式ZIPPOしかし、それでも暫くの間は大丈夫だったのだ。(笑)

でも今回もだめだった。次回も(たぶん)だめだろう。こうして法は整備され、施行され、実際に機能し、人々の安全は守られる。

一方私は、愛用のオイルタンク式のライターを、空路を使った出張先でも使うという〈自由〉を失った。

しかし、その〈自由〉を、いくら声高に、返せ!と叫んだところで、私の主張を支持してくれる方など、皆無に近い。

僕とフリオと校庭で 

When the papa found out he began to shout
And he started the investigation
     it's against the low
     it was against the low
     What the mama saw
     it was against the low 
(Paul Simon "ME AND JURIO DOWN BY THE SCHOOLYARD")

パパは見つけるとわめきだし
そして調査を開始した。
  これは法律違反だぞ
  法律に違反している
  ママの見たものは
  法律に違反している
(ポール・サイモン:僕とフリオと校庭で)

法律という外部装置

これは例えば、Suicaによって駅の改札業務は楽になったけれども、ある方々は、キセルする〈自由〉を失った、ということ。例えば、独禁法や、談合防止法によって、談合する〈自由〉を失った方々もいる、ということに似ている。

しかしいくらそのような〈自由〉を主張したところで、「それは法律違反だ」といわれるだけだろう。法律は、われわれ人間が外部につくった、互恵的利他性の(仲良く暮らすための)装置のようなものであるが、それは必ず失うものをつくる。

その多くは個人の利己的な〈自由〉であるが故に、かつてその利己性を封じ込めてきた共同体性の破壊に収斂してしまう。

そしてその社会的なコストは高い。例えば教育とは、そのコストを抑えるために、法律を守ることを教えることのようになってしまっているが、本来は、法律がなくとも利他的に行動できる人間を育てることではなかったのだろうか。法律はそんな基本的なことさえわれわれから奪い去る。

結局、私たちは〈自由〉を求めて共同体を壊した。けれども、そこに待っていたのは〈自由〉への開放ではなく、もっと厳しく〈自由〉を抑制する装置でしかなかったということだろう。