なぜ私のブログでは、「(私は)思う」と私を()の中に入れてしまっているのか、ということ。

午前7時5分起床。浅草は晴れ。

これは、土曜日の勉強会のときに話したことだけれども、なぜ私はブログでは、「(私は)思う」と、「私」をわざわざ( )の中に入れてしまっているのか、ということいについて。

その理由はと言えば、ひどくくだらないもので、それは、そう思っている「私」が、本当の「私」なのかどうか、「私」にはわからないのでね、とりあえず( )に入れて、それは保留にしてしまおうとしているのよ、という話をした。(笑)

「私は」というのはじつは「私」ではないのではないかと(私は)思っている。なにしろ一人称である「私は」と書いた途端に、「私は」何者にでもなれてしまう。

我輩は猫である? 

neko.jpgそのことに(たぶん)最初に気がついたのが夏目漱石であって、つまり『吾輩は猫である』は、その仕組みをばらしてみせたのだろうと。

つまり「私」は猫なのであるが、冷静に考えたらそれはへんじゃないのか。私が猫になって小説が一本書けてしまうのは道理が通っていそうで、じつは通っていないのじゃないのだろうか。猫である「私」は、はたして「私」なのだろうかと。

つまり明治以降の近代化は個人であることを強調してきたけれども、それがこの国における「私は」の始まりではある。そして小説家は「私は」と書き始めた。その途端、文学なんていうものは、この国では絶滅危惧種の道を歩み始めた。

私であることの命令

その「私」であることの命令は今も生きていて、ずっと「今は個人の時代だ」といわれ続けて育ってきたのが、私たちの世代だ。しかし48年間も生きてきて、なにが個人なのか、だれもはっきりと教えてくれなかったし、自分で考える方法も教えてもらった覚えはない。だから若い頃には、「私は私」などと言って、わかった気になっていた。

それにしても個人としての「私」というのは何者なのかとまた考えてしまうのは、つまりまだ私はモダンでもないからだろうし、私自身が今まで個を実感するような生き方をしてこなかったからだと思う。

そして今は、そんな生き方ができる環境が、なにか絶滅してしまうように感じているから、尚更、個人としての「私」というのは何者なのかとまた考えてしまうのだろう。

パトリ

個と桃組(バロックの館)もはや私が私であるための装置としてのパトリは、浅草と桃組とブログしかないのかもしれないなと思う。浅草は物理的リアルな足場だし、ブログはバーチャル(インターネット)にある。桃組はそのハイブリッドといったところだろうか。

問題はバーチャルな足場としてのブログであって、私はこうして毎日なにかしらをブログとして書き続けているが、それはなによりも私が私であるための装置としてだ。

しかし考えてみれば、そのブログも一人称で書かれる。つまりそのブログの「私」も所詮「猫」じゃないのかと。 (笑)

コギト

それで出来る限り反省の次元に送り込むような書き方――それが「Mobiusの1/2切断×2モデル」なのだけれども――をしている(つもりではある)。そしてこれって(たぶん)コギト――我思う故に我あり――だよね、と。

であれば、もう少し個というものが機能してよさそうなのだけれども――それは(私自身の)近代化の模擬的なレッスンとしては機能しているとは思うけれど――、しかしね、我は思わなくて我はあったりするのだし、日本語でやるコギトは、ますます自他非分離を強くしているというのが、私が9年間ブログを書き続けて感じていることなのでね。

鏡像

さらに、所詮、「私」の確認なんて、鏡像を使うか、自己愛に引きこもるかだろうし、その自己愛だって、〈他者〉から攻撃されれば欝になるのが関の山じゃないかと。

つまり「私は」なんて言ってみても、せいぜいそれは〈他者〉に写った鏡像であって、その中で「私は」と言ってみたところで、それは近代化の模擬レッスン以上のものにはなれそうもないなと(私は)思う。

ブログ 

そして決定的なものはインターネットのもつ鏡像性じゃないのだろうかと(私は)思う。以下は、2005/03/14 (月) 【悪党・ウェブログについて考える(1)】より引用。

それがなにものなのかは、また別の機会に書こうと思うが、一つだけたしかなことは、表現の一手段として日記を書き続けること、その推進エンジンは、〈他者〉からの、ポジティブなフィードバックである、ということだ。

(それは、わたしの場合、バーチャルは勿論、リアルな場にも生まれてくるのだが)。

そして、付け加えるならば、ただ書き続けることで、何かは生まれている。

その何かのひとつは、読み手がもつ物語の一部に、わたしが居るということだ。

鏡像段階たぶん基本的には、今もこの思いに変わりはしないけれど、「読み手がもつ物語の一部に、わたしが居るということだ」なんて、今は恥ずかしくて言えやしない。(笑)

ただ、私のへその緒はインターネットにつながっている、と今なら書くだろう。

ウェブログ(ブログ)は、読まれてなんぼのものであって、たとえコメントもトラックバックもつかなくとも、アクセスログが、0のままじゃやってられない――ここが日記とは全く違うところだ。

ブログはインターネットという、でっかい母ちゃんとの想像界である。そこにある鏡像が「(私は)思う」なのである――つまり母ちゃんにもそう思ってもらいたい(らしい)。

つまり(私は)つながりたいのだ。(笑)

しかし私は、ライプニッツ、田邉元的「個」=モナドであろうとすることを、あきらめたわけじゃない――だからこんな書き方しかできないのだろうな、と(私は)思う。

ウェブログの心理学

ウェブログの心理学

山下清美/川浦康至/川上善郎/三浦麻子(著)
2005年3月25日
NTT出版
2310円(税込)