SNSをやめた理由は「面倒になったから(61.3%)」が最も多く、次いで「つまらなかったから(33.8%)」、「飽きたから(24.6%)」と続く。

SNSは面倒?

SNS認知は約5割も実際の登録は3割弱--やめたのは「面倒になったから」(CNET)

SNSですることは「人の日記を読む(84.7%)」が最も多く、次いで「日記を書く(73.8%)」、「自分のプロフィールを書く(72.0%)」と続く。またSNSの良いところについては「日記などから友人の近況がわかる(66.2%)」、「無料である(57.2%)」、「友人が増える/友達の輪が広がる(42.5%)」などの回答が多く挙げられた。/一方、SNSをやめた理由は「面倒になったから(61.3%)」が最も多く、次いで「つまらなかったから(33.8%)」、「飽きたから(24.6%)」と続く。

私のSNS(mixi)の使い方

私は、SNS――私の場合 mixi ――で(今は)日記を書くことはしないし、毎日アクセスはするけれども、滞在時間は延べ20分未満/日程度だろう。

私のmixiの使い方は、SNSをグループウェアとして使っている。だから(唯一主催している)「桃組」コミュニティには鍵がかかっているし、私の日記は公開を制限している(それはこのブログのRSSリーダー化しているので意味はないのだが)――コメントが付いた場合、そのコメントを読める範囲を制限しているということだ。

mixiは出会い系サイトだとは言われているけれど、私は(今は)mixiでの出会いなど期待してはいないし、ほとんどはリアルにはじまり、ついでにマイミクになる程度のものである。まあ、50歳を目の前にしたおやじの使い方としては、こんなものだろうと思う。

SNSをやめた理由

それはさておき、今回の調査で気になったのは、SNSをやめた理由の方だ。

SNSをやめた理由は「面倒になったから(61.3%)」が最も多く、次いで「つまらなかったから(33.8%)」、「飽きたから(24.6%)」と続く。

気にしないのであればなんでもないのだろうが、「面倒になったから」とか、「つまらなかったから」とか、「飽きたから」って、「何が」と考えてみると面白いかと思う。それはたぶん「コミュニケーションが(に)飽きた」であるだろうし、そのコミュニケーションが指し示す〈私〉が(に)であるだろうと(私は)思う。

mixi を出会い系として使っていても、その出会いは「同質系」との出会を超えることはないだろう。よほどの暇人でもない限り、意見の対立するコミュニティに参加して、わざわざ苛立っている必要などないのである。

円環モデル

当然そこでのコミュニケーションは、「円環モデル」の域を出ない――つまり「たわいもない会話」若しくは井戸端会議に終始するし――それでよいのだと(私は)思う。

つまりSNSは、出会い系で使おうが、私のようにグループウェア的に使おうが、そこでのコミュニケーションは、「円環モデル」としての現実以上でも以下でもない関係に収斂する。

10年前に初めてインターネットに触れたときならともかくも、バーチャルで時間と距離を越えてコミュニケーションできることなど今や現実でしかなく、それを強調する意味などなにもない。

そして井戸端会議に終始するなら、そこに新しい〈私〉を求めても、そこにある鏡像が「同質系」なのだから、そこからの指し示しも同質なのであり、新しい〈私〉が生まれることなど、まず無理なことだ。

では、それを超えることは不可能なのかと言えばそうでもなく、その壁を乗り越えることは(書いてしまえば)意外と簡単で、自らアクションを起こす、自ら変化する、ということでしかない。

しかしSNS内でそれをやらかす人間は稀だろう。というかSNSは本質的にそのような場ではない―でっかい子宮である――、そんなことをすること自体がSNSではただのネタであり、消費されるだけであり、ベタなのである。だからなにも変わらない、SNSは現実の投影でしかなくなる。

だから何処かで「新しい私」を志向する方々にとっては、つまらないのであり、飽きてしまうのだろう、と(私は)思うし、そしてそんなコミュニケーションに付き合うのが面倒になるのだろうと思う。

ひねりとしてのブログ

つまり「ひねり」を孕んだ〈他者〉とのコミュニケーション――新たな〈他者〉との出会いとは新たな〈私〉の指し示しの始まりである――としての「Mobiusの1/3切断モデル」や「Mobiusの1/2切断×2モデル」を求めるなら、Blogの方が数段面白いし、可能性も高いだろうと(私は)思う。(ただそれは、やれる人間にとっては、だけれどもね)。

だとしたら(私は)、円環モデルとして割り切って(あえて)SNSを使うし、そこにちょっとだけ「ひねり」を孕ませるために(あえて)Blogを使う。今のところデジタルなコミュニケーションなんて、こんなことぐらいしかできやしないのである(と分かったような顔をして、あえて)使うのである。