12時23分岩見沢駅に着く。岩見沢は晴れ、しかし街は雪に覆われている。
ところで京都精華大学の「まちづくり論」、今日はですね
、ハイパーインダストリアル世界の「みんな」すなわち 「遠景のなかに溶解した個」ではなく、街場こそが「われわれ 」という間主観的な意識をつくり出し、だからこそ 「エッジのたった個」が立ち上がるという話でした。 バロックの館の1階部分の説明で、白板に絵を描いたわけです。
「おおおー」という感じで受けました。
(略)
あはは…、そのとおり。講演とか教鞭というのは時に芸であっていいのであって、江弘樹のバロックの館は、見せ場たっぷりだったろうな、と思う。私も彼の授業を受けたい、とも。
私には戸口も窓もないのだが、それはまさしく〈実存すること
〉によってなのであって、私の内にある伝達し得ない何らかの内容 によるのではない。〈実存すること〉が伝達し得ないのは、 〈実存すること〉が私の内にあってもっとも私的な(個人的な )ものである私の存在の中に根を張っているからである」 (エマニュエル・レヴィナス『時間と他者』「〈実存すること 〉の孤独」より)
単子(モナド)と同じように、そのような個体にはいわば「窓がない」。異なる個体同士を包摂して、そこにコミュニケーシ ョンを実現してくれるような、一切の安易な回路はそこにははじめ から存在してはいない。このような個体性を、外延として表現して みれば、それはまさしく「点」にほかならない。このような点には 、もちろんのこと窓とてなく、点と点を結びつける媒質も 、想像界によらないかぎりは、現実(リアル)としてはない。 (中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』p321)
につきるということです。
うん、いい引用だと思う。そして、
「140B劇場」と「モモログ」の同時掲載で、「浅草←
→岸和田からワシらも考える」という往復インターネット書簡やり ませんか。
これは絶対本になりそうです。
マジで。
というお誘いを受けた。これは一も二も無く引き受けることにしたい。それは、本になるかどうかは別として、江弘毅の思考に触れそれに絡めることは、今の私にとっては最大の喜びであるからだ。