そうであれば、あの「スタンダード」の大合唱は何だったのだろう。そもそも、スタンダードとは何なのか、何をもたらしてくれる可能性があるのか、成功者の戦略は模倣可能なのか、であれば、自分たちはどう行動すべきなのかといったことを深く考察していたのだろうかと、ちょっと疑いを抱いてしまったりもする。「Wintelを見ればわかるだろ、とにかく自分たちの提唱する規格をスタンダードにさえできれば、あとは利益が勝手についてきてくれるのさ」とか、すごく単純に思い込んでいたのではないかと。まさかとは思うけど。 [最も効果的なブランドの壊し方-思索の副作用-Tech-On!]


午前7時起床。浅草は晴れ。朝から頭痛。風邪でもひいたのか調子が悪い。

正解の思い込み

さて、「正解の思い込み」という言葉は、『桃論』で使ったものだけれども、つまりは今の時代は、ちょっとばっかし考えてベストソリューションを導入したたところで、それでやっていけるようなものではないのよ、ということだ。

それはわかっているようでわかっちゃいない。ついつい私たちは思い込みの薄っぺらい深遠(という言語矛盾)に飲み込まれてしまう。

上記引用( [最も効果的なブランドの壊し方-思索の副作用-Tech-On!]は面白いので是非読みましょう!)にある

成功者の戦略は模倣可能なのか、であれば、自分たちはどう行動すべきなのかといったことを深く考察していたのだろうかと、ちょっと疑いを抱いてしまったりもする。

というフレーズは「正解の思い込み」への疑問であるわけで、つまりは「スタンダード戦略」こそがベストソリューションだと思うことは、「考察」すること「考える」ことが無いことなのだと言う。『桃論』ではこんな風に書いている。

〈経営に正解はあるという思い込み〉

です(以下、「正解の思い込み」と呼びます)。これは、「経営戦略のようなものは、どこかで、コンピュータソフトのように販売されている」と思い込んでいるということです。

この「思い込み」は、その「正解」を買えば当社にも立派な経営戦略がやってくる、というような、なんともお気楽で、他人任せな精神に支えられているものですが、それが「ベスト・ソリューション」とかいうモノを導入すればすべてがうまくいくというなビジネスを成り立たせているのも事実です。しかしこれも、中小建設業の妄信的な行動と、その結果としての失望を生み出しているだけでしかありません。[桃論|Lesson12 正解の思い込み(2)―ベスト・ソリューション]

昭和の慣性

これは、理念とか哲学がなくとも、経営がなんとかなった時代(右肩上がりの時代)の慣性のようなものだろう。

まあ、右肩上がりの戦後昭和の日本経済の戦略が、そもそも開発主義(官主導キャッチアップ戦略)であったのだから、それが日本国内隅々、我々の脳みその隅々まで浸透していたとしても仕方はない。

今は、昭和ブームらしいが、それは考えなくとも(理念と哲学がなくとも)身体を動かしていればなんとかなった時代を懐かしんでいるのだ、と(私は)思う。

だからと言って、わたしゃ、日本人は創造性に欠け独創性がないからダメなんだ、などと言うつもりは微塵もない。ない(と言うか失った)のは理念と哲学の方なのである。

学習の高速道路と大渋滞

創造性と独創性を持ち合わせていない凡人である我々の戦略はいつでも

とりあえずはこの巨大な動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保っていくことが一つの方法になるかもしれない。(川俣正:『アートレス』:p45)

なのである。つまりそれは「学習の高速道路」であり、ベストソリューションの導入でしかない。つまりは、とりあえずはキャッチアップでもいいじゃないの、と(私は)思う。

しかし「思い込み」はいけない。それですべてうまくいくと思い込んだらおしまいなのである。つまり、その高速道路には大渋滞が待っている、ということを知っていなくてはならない。

キャッチアップなんていうのは、常に先頭を走ってくれる人がいなけりゃできないのであって、いざ追いついてしまったら、何をしていいのかわからなくなるか、今度は自分が先頭に立つしかない(キャッチアップされる)という大不幸が待っている。

では大渋滞にぶち当たったらどうするのか、と(今はほとんどの方が大渋滞の中にいる)。そこでは、先頭に立とうが立つまいが、理念と哲学を持ってじたばたするしかないのだと(私は)思う。

じたばた

「じたばた」とは、己の身体をもって考える、ということだ。この身体性を持った思考とは、つまりは身に染みた「芸」のことであり「技」のことである。つまりそういう私自身の基底になるものがなければ身体性を持った思考などできるはずもないのである。ここでは末広亭の席亭であった北村銀太郎氏のことばを引用しよう。

志ん朝のように若くてもわかっているもんにはわかっている。しかし、このことを知るには芸が下手じゃ無理なんだ。下手では寄席の大きさ、大切さがまるで見えてこないんだもの。わかりようがないんだよ、悲しいかな下手じゃあね。ところが芸が上達すると、それがわかってくる。(新宿末広亭席主 北村銀太郎氏のことば:引用:冨田均:『聞書き・寄席末広亭―席主北村銀太郎述』:p156-157)

つまりだ、「理念と哲学を持ってじたばたするしかない」と言っても、肝心要の理念と哲学は模倣もキャッチアップもできないのよ、なのである。

種的基体

それは「芸」とか「技」と呼ばれてきたようなものの中にある。つまり「芸」や「技」とは、時間軸と共に変化する己の成長(変化)なのである。

この、自分が成長するには時間がかかる、という当たり前のことを忘れてしまう(交換の原理が支配的ということだ)ところに、正解の思い込みは存在すのだけれども、そのことによって、今や理念と哲学がないのである。日本人には、創造性や独創性がないのではない。もはや理念と哲学を育む「種的基体」がないことで、偽装と平謝りの毎日なのだ、と(私は)思う。

理念と哲学の源泉(つまりは時間軸と共に変化する己の源泉)とは、「種的基体」としてのバロックの館の1階部分、つまり「中景」であり「パトリ」なのだ。

そういうものをないがしろにしてきたことで、我々は経済的な豊かさえ、やがては失ってしまうかもしれないし、経済的に豊かになっても、ちっとも面白くない時代を過ごさなくちゃいけなくなってしまうのだろうな、と思うのだ。