太宰治『家庭の幸福』
太宰治『家庭の幸福』


江弘樹から「浅草・岸和田往復書簡」の返信が届いていたので朝のうちにアップする。お題は[「家庭の幸福は諸悪のもと」と太宰は言うた。それで泣いてるのは街だと困る。]という文学的?なものだ。テーマは「家族」である。よくもまあそんなめんどくさいものを、とは思うが、往復書簡なんていうのは筋書きはないのであって、芋蔓式にづるづるとやるしかない。となれば家族が好きな人も家族嫌いな人も読んでおきましょう。しかし、

太宰治の『家庭の幸福』という短編がありましたねえ。

戦後すぐ話なのですが、役所勤めの30歳が主人公で、ラジオというその頃の先端を象徴する家電(耐久消費財)を通して、いかに「家族」が物質的欲望を具現化する共同体となって、その無意識=エゴイズムが他者をいかに損なっていくか、というとんでもない今的な予言めいた作品で、「曰(いわ)く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)」という最後のやつです。

という先制攻撃には「うっ!」と一歩引いてしまう。急にそんなこと言われたって、あなた…、あたしゃ太宰なんて『走れメロス』ぐらいしか知らないのに(それも教科書に載っていたからだし)、と。

それでBeing digitalな私はアマゾンで太宰の本でも購入するか、と急ぎWebで『家庭の幸福』を検索する。さすれば、さすがに便利な世の中であるな、ちゃんと全文 digital data 化されて公開されているじゃありませんか。

そこでこれ幸いに読んではみたのだが、横書きのブログに比べれば遥かに長文のテクストを、ディスプレイで読み進めていくのは年寄りには辛いな、なのである。目がしょぼしょぼする。なので全文コピーをしてワードに貼り付け、縦書きにし、文字の大きさ12ポイント、ゴシック体で、袋綴じ印刷をしてみたのだ。これは読みやすい!すらすらと読める。しかも右脳が機能するので想像力は働く。

太宰治の『家庭の幸福』は面白い!(江よ、いいテクストを紹介してくれて感謝だ)。

そこにある「幸せな家庭」は物語であり仮定でしかないが、そういう物語を理想とするのは誰しも心にあることだろう。しかし、あえて、それを欲望の対象とする人間として太宰が役人を想定するのは、彼らが勉強がよく出来る世間知らずな人間のメタファーであるからで、それは今の時代でも対して変わらない、とは思う。

彼は日の出と共に起きて、井戸端で顔を洗い、その気分のすがすがしさ、思わずパンパンと太陽に向って柏手(かしわで)を打って礼拝するのである。老母妻子の笑顔を思えば、買い出しのお芋六貫も重くは無く、畑仕事、水汲(みずく)み、薪割(まきわ)り、絵本の朗読、子供の馬、積木の相手、アンヨは上手、つつましきながらも家庭は常に春の如く、かなり広い庭は、ことごとく打ちたがやされて畑になってはいるが、この主人、ただの興覚めの実利主義者とかいうものとは事ちがい、畑のぐるりに四季の草花や樹の花を品よく咲かせ、庭の隅の鶏舎の白色レグホンが、卵を産む度に家中に歓声が挙り、書きたてたらきりの無いほど、つまり、幸福な家庭なんだ。

しかしそんな「幸福な家庭」なんかあるわけもないことは皆さんよく知っているし、家庭は総じて不幸である、と書けば、皆さん、うちも不幸だ、と同意してくださるだろう。家庭は不幸である。それでも「幸せな家庭」をナイーブに信じ、そこで自分は物語を消費し、幸せ演技し、それが幸せだ、と感じることが可能なのなら、それは悪いことではないだろう。しかしそんな幸せなどないことがわかっていても、幸せな家庭を作ろう、とし、もがき苦しんでいる自分がいるではないか。

幸福な家庭はお互いに似通ったものであるが不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっている(トルストイ:『アンナ・カレーニナ』)

私は前回の往復書簡の中で引用したけれど、たとえ不幸な家庭ではあっても、幸福になろうともがき苦しんでいる人間には陰影がある。それは不幸を知っているという深遠だし、バロックの館の2階部分のなのだと(私は)思う。

たしかに「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」であるが、不幸を背負った幸福な家庭っていうのは出来ないものなのかね、と(私は)能天気に思うのだ。