自伝の人間学

自伝の人間学 (新潮文庫 ほ 19-1)

保坂正康(著)
2007年11月1日
新潮文庫
514円+税


午前7時起床。浅草は晴れ。今日は岩手建協広報IT委員会のため盛岡へ出張である。

自伝は嫌いだ

勝小吉 『夢酔独言 他』 平凡社ライブラリー勝小吉の『夢酔独言』は私が唯一完読した自伝であってそれは文句なしに面白かった。最近のものではフラナリー・オコナーの『存在することの習慣』は書簡集だけれども自伝(自叙伝)と呼べないこともないのだろうから、むりやりこれを含めてみても私の読んだ自伝はたったの二冊しかない。

私は自伝が嫌いなのだ。なにか歯の浮くような表現が並ぶ胡散臭い嘘臭いテクストぐらいにしか読めない。自己賛美に終始するか、自虐的な告白か、自費出版のそれなんか、長生きすれば勝ちとばかりに事実を歪曲し勝手なことを書いているとしか思えないものもある。そんなものにつきあうのは時間の無駄であり、なによりもテクストを読む享楽(快楽)がない。 快楽なきテクストなんてまっぴら御免なのである。

自伝を書く動機の5分類

自伝の人間学』の著者である保坂正康は、私とは違い自伝を山ほど読んでいる。その眼は分析的で冷ややか且つ氏の人間性も垣間見られるものであることでそのテクストを読むのは楽しい時間だった。そういう氏曰く「日本人はとにかく"自分をみつめて記録にとどめる"のが好みに合うらしい」のだそうだ。ほんとかね、と思う。"自分をみつめて記録にとどめる"なんてことを習慣にしている人は今日本に何人いるのだろうか。"自分をみつめないで"人生のどこかで自伝を書くことは可能だろうが、そういう自伝を私は毛嫌いしているのだし世の中そんな自伝(自叙伝)で溢れている。そう私はブログのことを言いたいのだ。

保坂によれば自伝を「書きたいから」書いている人の動機は次の5つに分類されるらしい。

  1. 自分の人生を書きとどめておきたい(内的衝動)
  2. 自分がいかに成功者になったか(自己誇示)
  3. 自分の人生を児孫に伝えたい(教訓)
  4. 自分の歴史的役割を広く後世に伝えたい(記録性)
  5. 自分の特異な体験を広く後世に伝えない(特異性)

私はどれにもあてはまらない

私は"自分をみつめて記録にとどめる"ブログはある種の自叙伝だと考えていて、それは言ってみれば日々一人称で書かれる自伝のようなものだろうと思う。それは"自分をみつめて記録にとどめる"テクストである限り読む価値がある。そこから何かを学ぼうなんていうスケベ心からではなく読む快楽があるから読む価値がある。

そういう私も Everyday I Write the Blog である。毎日ブログを書いている。できれば"自分をみつめて記録にとどめる"ものとして書きたいと思っている。「書きたいから」書いている。しかしその動機は保坂の5つの動機のどれにも当たらない。

それは「自分の人生を書きとどめておきたい(内的衝動)」というわけではないし(ただデータベース的に書くと言う意味では少しはあるが)、「自分がいかに成功者になったか(自己誇示)」なんてものであるはずがない(だいたい成功者ってなんだよと)。「自分の人生を児孫に伝えたい(教訓)」ほどの人生じゃないことぐらい自覚しているし、「自分の歴史的役割を広く後世に伝えたい(記録性)」などという歴史的役割なんてあるはずもない。そして「自分の特異な体験を広く後世に伝えない(特異性)」と言われても特異な体験がないから私は退屈なのである。

私の動機

私はただ仕事をする生活者としての自分を書きたいと願っている。ではその動機はなんだろう。その一番の動機はまちがいなく広義のコミュニケーション欲望であるだろうなと思う。つまりつながりたいのだ。しかしそれが「空気をよむ」コミュニケーションのような想像界的な「つながりたい」を肯定しながらも否定しているものであることは昨日書いたので繰り返さない。けれどもコピー&ペーストはするのである。(笑)

私はコミュニケーションを仕事や創造そして生活から切り離されたところに構築する気はさらさらない。私は私の生活にまとわりついたねばねばとしたものしか情報として発信できない。それは想像界的接点とさほど違わないものだけれども、しかし(たぶん)乳臭くはない。たぶん酒臭い。それを言葉を用いて表現するのに四苦八苦している。そしてそのミームヴィークルがインターネット―ブログであることで機械的に偶有性を拡大しようとする。閉じた円環を切ろうとする。そうでもしないことには私の退屈は満たされないのだわ。(I Can't Get No) Satisfaction なのだ。