剣客商売読本

剣客商売読本 (新潮文庫)

池波正太郎ほか
2003年9月20日
新潮文庫
629円+税


昨年の9月頃から、正月を挟み2年越しで、池波正太郎の『剣客商売』を読んでいた。ようやく『ないしょないしょ―剣客商売番外編 (新潮文庫)』を除き、番外編までの全てを読み終えた。『ないしょ ないしょ』にも手をつけたのだが、これは今月中旬の移動の楽しみにとっておいた方がよいな等とスケベ心が働いてしまったのでとってある。まあどちらにしろ今月中には読んでしまえる予定なので、めでたく全巻読破となるだろう。

私は多読であることは自負している。週になんだかんだと5冊程度は読んでいる。けれど、もっぱら読んでいるのは、専門書とか、新書とか、ビジネス書の類であって、小説とくに時代小説の類は殆ど読んでこなかった。例外は同じく池波正太郎の『鬼平犯科帳』であり、『仕掛人・藤枝梅安』であり、考えてみれば時代小説といえば池波正太郎ばかり読んできた(それでも最近は色々読んでいたりもするけれど)。

そんな池波作品の中でも『剣客商売』はつい最近迄まったく読めなかったのだ。それはなんともかったるい。鬼兵のかっこよさも梅安の残酷さもない。小兵衛は剣客だけれども爺くさく、いってみれば中庸(灰色)なのである。灰色の必要性は誰よりも認めている私であるはずなのに、それが読み物となるとイリュージョンとならない。脳みそが勝手にイメージを描き出すには退屈すぎた。何度トライしても早々に挫折を繰り返すばかりだった。しかし今となっては、この池波作品を代表する三シリーズの中では『剣客商売』が一番好きになってしまった〈私〉がいたりする。

それは筒井ガンコ堂がいう

私が師・池波正太郎から直接訓えられたことは多々あるが、その中で一番、現在身にしてみて教訓としているのは、「人間は四十歳を過ぎたら、一日に一度、死ということを考えた方がいい」という言葉である。死を思うことによって、日々の生がかけ替えのないものになるという風に理解しているが、作者は『剣客商売』を書き続けながら、自らとほぼ年齢の近い小兵衛の言葉に託して、さまざまなことを私たちに伝えてくれていたのだ。(筒井がんこ堂:『剣客商売読本』:p223)

ということなのかなと思う。けれどそれを気取るのも気恥ずかしいし「一日に一度、死ということを考えた方がいい」を履行することなんかできやしない。

けれど私も歳をとり「人間死ぬために生きている」となんとなくでも思うようになったのだろう。「日々の生がかけ替えのないものになる」というのはありだなと思うのだ。最近の私のモットーときたら「一日三食、一食たりとも無駄にできるか」なのだからね。

それから『剣客商売』という題名がなんともいいなと思う。剣の道(修行)と/商売(金儲け)は相反するもののように思えるが小兵衛はそれを両立してしまう。それはいってみれば「好きなことを仕事として貫くことで食っていけるのか」ということの答えのようなものだろう。

剣客は〈私〉にもあるはずである。それは好きなことを通じて自分を磨くことだ。そこまでは行かなくとも、それがただ生活を保つだけの仕事だとしても、続けることで仕事だけではない〈私〉の人としての営みと人生の深みが生まれてくるはずなのである。

しかし今や仕事は時給850円となってしまった。そこに〈私〉の人生のなにが生まれるのだろうか、というのが私の問題意識なのだが、だからこそ(これは先に引用したこともあるフレーズなのだが)これは絶対にありだよなと思う。

「剣術というものは、一所懸命にやって先ず十年。それほどにやらぬと、おれは強いという自信(こころ)にはなれぬ」
「そこでな、十年やって、さらにまた十年やると、今度は、相手の強さがわかってくる」
「それからまた、十年やるとな……」
「三十年も剣術をやると、今度は、おのれがいかに弱いかということがわかる」
「四十年やると、もう何がなんだか、わけがわからなくなってくる」
(抜粋:『剣客商売二:悪い虫』:p150あたり)

これはバロックの館の一階部分のことである。私の理想である〈モナド的なつながり〉というのは、こういうレベルじゃないと無理なんだろうなと思う。それは秋山小兵衛、大治郎の父子関係でもある。ある道を究めようとする剣客同士の関係というのは、たとえ父子ではあってもじつに清々としている。想像界的接続はない。母と子の悲哀とか情愛とは違う〈つながり〉がこの小説にはある(それは鬼平にも梅安にもあるものだ)。しかしそれも池波正太郎には子供がいなかったから、といわれてしまうと、ライプニッツ・田邊元問題は私の中で再燃してしまうのだけれどもね。