そして最後に――これはとても陳腐なので恥かしいのですけれども――このブログは私の中にある「自分を表現してみたい」という欲望のあらわれです。「自分」と「表現」へのこだわりは、近代人特有の「病」のようなものです。そこにさらに、日本語における「(小説や詩という意味ではなく書く・読むにまつわるすべての言説という意味での)文学」というパラダイムが歪んだ形で構成した欲望が加わっています。それは歴史をひも解き、文学理論を少しでもかじっていればほとんど常識に類することなのですが、私はどうやらたっぷりとそれを自分の中に蓄え、時折外に出してやらないと暴走しそうになる、どうしようもない病人であるようなのです。[〈ことば〉ノート: ブログの効用]


これは「ブログ 効用」の検索をしていて見つけたテクスト(なんと2004年に書かれたものだ)で、ああ、これはあるよねとしみじみと思ってしまった。

たしかにあたしときたら結局はこれ(私はどうやらたっぷりとそれを自分の中に蓄え、時折外に出してやらないと暴走しそうになる、どうしようもない病人である)なのだし、ブログを執着をもって書ける/書けないというのも、結局は病気であるか/ないかなのじゃないのかとも思っている。

ただ病気というのは病気かもしれないが/病気ではなく、「私」と書くテクスト、つまり近代化された日本語の洗礼(去勢)をより強く受けたのか/受けないかの違いである。(日本語という言葉の去勢は日本人ならだれども受ける。ただその強弱はある)。

たぶん近代化以前(例えば江戸時代)にでも生まれていたら、あたしもブログを書く必要などさらさらなく(ブログなどないから当たり前だが日記と読み替えていただければよいだろう)、ましてやあたしの身分なら文字を書けたかどうかも危ういとろだ。

中途半端に病気である(去勢の弱い=象徴の貧困)世代の走りとして生まれ、今から10年程前までほとんど本も読まず、テクストも書かず、ぼよよ~んと動物的に生きてきたあたしは、言葉を使ってデコードすることもエンコードすることも習慣として持っていなかった。そのことで自己顕示欲だけは強いにも関わらず、なんだかわからない曖昧な〈私〉でしかなかった。

つまり顕示しようとしても顕示する〈私〉がないのだからどうしようもない。〈私〉がないのだから〈他者〉への想像力は欠如し、〈他者〉がいないことであたしは〈私〉じゃないのである。できることといえば商品を身に付けそれ(商品)によって自分を語るぐらいがせいぜいなのだ。

それは考えているようで/考えてはいないことなのである。考えなくとも商品が私を語ってくれていると考えているのだから考えてはいないのだ。

ブランド品のもつ物語など私とは無縁のものでしかなく、私はそういう無縁の物語を自分にまとい自分を語ろうとしてきたに過ぎない。そんな時代が40歳近くまであったのだから、自分でそれに気付いたときは絶望的になった。

気付かなければなんともないのだろうが、これはいったん気付いてしまったらどうしようもないのである。そして馬鹿のまま死ぬのは嫌だとあたしは思ってしまったのだ。

そこで無理やりに読書量を(飛躍的に)増やしブログを書きはじめた。そしてそれを「存在することの習慣」として続けることで、あたしはこの10年の間に急激にそして個人的に(日本語的に)近代化してきたともいえるし、その結果として商品の代わりにテクストで自己を顕示しようとする病気(テクスト狂)になったわけだ。(つまりその病根はたいして変わらない)。

しかしそれは悪いことではないだろう。なによりもあたしの欲望は商品に依存することが少ない(せいぜいチロルチョコの大人買いだもの)。つまりお金に快楽を依存させることがかなり弱い。そのことでメタ欲望としてのお金から少しだけ距離をとることができてしまうのだが、そのことで、かえってお金万能の世の中(世間)がよく見えるようになったということなんだろうなと思うのだ。