桃知商店よりのお知らせ

パチンコは地方資本主義の最終商品なのか。

江弘毅「140B劇場-浅草・岸和田往復書簡」に、パチンコ好きの神経を逆撫でするようなテクストを書いた。題して

[パチンコ、パチンコ、パチンコにいくのさ。若しくは、集団的で一人ぽっちの「みんな」。]

もちろんそれは江弘毅への返信であって、彼がパチンコをする人なのかどうかは知らないが(麻雀をする人であることは知っている)。


今回のテクストは、「地方で深夜TVを見ていると、パチンコのCMに番組がサンドウィッチされているような感覚に陥ってしまう」というメモから展開しはじめた。

ついでに書けば、地方のローカル新聞を読んでいると、パチンコ屋の全面広告なんていうのがあったりするわけで、それはあたし的には驚愕モノでしかないのだけれども、あたしはこれを、「パチンコは、ローカル資本主義の最終商品」というフレーズにして仕舞い込んでいた。

パチンコは、麻雀よりも、はるかに広い室内で、にぎやかにおこなわれるゲームだけれど、〈他者〉のいない、孤独なゲームだ(麻雀は少なくとも自分のほかに3人の〈他者〉がいる)。

それを称して《パチンコは、集団的で、しかも一人ぽっちの遊びである》と書いたのは、ロラン・バルト(『表徴の帝国』)であって、あたしはそこから、

私はパチンコ台を鏡にして、ようやく私を確認している鏡像段階の子供、若しくは機械と一体化している永遠の乳呑み児のようです。

なのでパチンコをしている人は「私」である、ということができません。パチンコ屋でパチンコをしている人は、「私」でも「われわれ」でもなく、パチンコをする人達という「みんな」でしかありません

と展開してみたわけだ。

それは(パチンコ好きの方にとっては)失礼な表現かもしれないが(たぶん、余計なお世話だ、ほっといてくれ、だろう)、もちろん、あたしはパチンコをしない人なので、おまえはパチンコをしらないからそんなことが言えるのだ、という批判は織り込み済みである。

」、「われわれ」、「みんな」の概念は、ベルナール・スティグレールからの引用で、引用元である:『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』については、たぶんそのうち書くかと思うので、まずは [パチンコ、パチンコ、パチンコにいくのさ。若しくは、集団的で一人ぽっちの「みんな」。] を読んでくださいな。

ちなみに、なぜ「パチンコ、パチンコ、パチンコにいくのさ。」と「パチンコ」を3回繰り返したのかというと、それは憂歌団の曲の記憶だ。

Track Back [1]

橋下府知事になったから。

というわけでは絶対ないとは思うが、いきなり大阪府... 続きを読む

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