午前7時30分起床。浅草は晴れ。ガソリン税のない新年度。唐突に、あたしは太田由希奈さんのファン(かもしれない)、などと書くと、フィギュアスケートシーズンも終わった頃に、なにを寝ぼけたことを、と顰蹙を買いそうなのだが、本当は書かなくてもよさそうな話をここに持ち出すのは、先日、この人のためにとっておいたフレーズを、うかつにもユニクロの時計に使ってしまったからで、それは
若くてきれいな女性は、真のヴォルタ電池であり、・・・・・・彼女にあっては、内部に捕らわれている流体が、表面の形態と髪の毛の絶縁作用とによってせき止められているのだ。(A・トゥスネル:『動物の精神―情念動物学―フランスの哺乳類』)
なのだが、今朝は、あらためて太田由希奈さん(とうちのかみさんの若い頃)のために、つづきを引用して、あたし的に決着をつけてしまいましょうや、という魂胆なのである。その続きのフレーズとは、
そのためこの流体が、みずからが閉じこめられている優しい牢獄から逃げ出そうとすると、信じがたいような努力を試みなければならない。そしてそうした努力は、感応力によって、さまざまなかたちで生気づけられている身体の上に、引力の恐ろしい被害をつくり出すのである。……人間の歴史においては、才気ある紳士、学者、果敢な英雄などが、……女性のただのウィンクを落雷のように受け取った例はいくらでもある。
という何度読んでも「ん~」と唸ってしまう、まったく凄い断章なのだ。
あたしは太田由希奈さんの滑る姿は2度しか見たことがない。それは2006年と2007年の全日本選手権のTV中継であって、つまりは年に一度だけしかお会いしていないのである。七夕様じゃあるまいし、たぶんこういうのはファンとは呼ばない。
けれど、ベンヤミンの『パサージュ論 (岩波現代文庫)』を読んでいて、そこに引用されたA・トゥスネルのこの断章をみつけたとき、思い出されるのは、年に1度しかおめにかからない太田由希奈さん(とうちのかみさんの若い頃)なのである。
浅田真央さんでもなければ、安藤美姫さんでもないのである。ましてやファンだと公言していた村主章枝さんでもないのである。この心象はなんだろう。
「思い浮かぶ」ということは、それなりのインパクトがあったからに他ならなず、《……女性のただのウィンクを落雷のように受け取った例はいくらでもある。》とは、うまいことをいうもんだなと思うのだが、べつにウィンクされた覚えもない。
まぁ、このフレーズには、時限があるのもたしかなのだが、しかし、この心象をあたしの中で失ってしまうようなことなったら、それはそれで怖いわな、と思う今日この頃なのである。あぁ……。
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ヴァルター・ベンヤミン(著) |