談合で業者2人逮捕 滑川市発注の下水道工事

滑川市が発注した下水道工事をめぐり、業者間で入札価格を調整したとして、富山県警捜査二課と滑川、魚津署は十三日、談合の疑いで、滑川市三ヶ、八倉巻建設専務八倉巻仁志(48)と、魚津市文化町、同社営業部長女川憲夫(61)の両容疑者を逮捕した。二人は談合を主導したことを認めている。県警は入札に参加した滑川市内の八業者についても、近く同容疑で書類送検する。(from 富山新聞ホームページ - 富山のニュース)


形式合理性・理論合理性・実質合理性・非合理性・実践合理性・超合理性。(GC空間)午前6時30分起床。浅草は晴れ。

地方の公共事業に対する談合摘発は、相変わらず続いているようで、「Yahoo!ニュース-不正と談合」は記事が途切れることもない。

なぜ切れないのか、といえば、談合は、構造的に「街的」の〈合理性〉、共同体性(パトリ)の〈合理性〉と構造的に同じものであるからだ。

もし、それを全否定しまうなら、GC空間の、第2、第4象限もまた否定されるものとなるだろう。

それは何よりもローカル側(第2象限と第4象限)が機能しなければ実現不可能なことであって、その第2と第4こそが「街的」の〈合理性〉なのである。

この「街的」の〈合理性〉というのは、第1象限、つまり〈形式合理性〉や〈理論合理性〉から見れば、非合理だと思われがちだが、そこに住む「われわれ」にとっては、マニュアル以上に合理的なのである。その「われわれ」にとっての合理性は、あたしのような〈他者〉からみれば、〈非合理性〉でしかなく、つまりそれが「快楽」なのである。(編集発行人 江弘毅 ミーツ・リージョナルNO.189 2004年3月号。 from モモログ

つまり、あたしたちが快楽・悦楽を求める人間である限り、第2、第4象限が否定されることはない(だからテレビ村は繁盛している)。ただ、「表出」を受ける者が感じる、悦楽/不快の差異が「談合」を排除の対象としている(のだろう)。

「街的」な表出は、多くの場合、〈他者〉にとっては「快楽」部分が大きい。しかし、「談合」は「不快」なのである。

それは同じ構造……というより、同じ心象の表/裏でしかないのだが、この表/裏のスイッチが、なんなのかを考えるのは、無駄なことだ。だからといって、それがなんなのか、わかっているはずもないのだが……。ただはっきりしていることはひとつあって、それは法律違反だ、ということである。

「街的」、たとえば昼間から蕎麦屋で酒を呑んでいる、なんていうのは、堕落した生活だろうが、それは法律違反ではない。けれど、「談合」は、どんなにまじめに、経済合理性に適い、他者への思いやりに満ちた行為であっても、法律違反なのである。

そしてそれは、こんな心象に似ているのではないか、と思うところもある。

たとえば洋画をみていると、家族の食事のシーンで、料理の残り物を1枚の皿にまとめ、その皿で、飼い犬に食べさせる、といようなシーンに出くわすことがある。

皿はまた洗って家族の食事に使うのだろうが、あれはあたしには「不快」そのものなのだ。

犬(に限らずペット)には、専用の食器をあてがうのであって、決して家族が使う食器を使ったりはしない。あたしには動物=穢れの心象が残っている。しかし、あちらさんでは(たぶん)平気なのである。

(たぶん)多くの日本の家庭では、(かつては)そうだったはずだが、今はどうかは知らない。ただ、あたしには、悦楽/不快のスイッチは、ペットと食器を共有できる/できない、の心象に似ているように思えるのだわ。