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3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 城繁幸を読む。

3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書 (708)) (新書)

3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書 (708))

城繁幸(著)
2008年3月10日
ちくま新書
720円+税


この本は、先日の盛岡往復の新幹線で読んでいた。かなり楽観的な自助努力主義(「交換の原理」)が貫かれていて、終身雇用のレールに乗らずに、自助努力で成功した方々のインタビューをまとめることで、アウトサイダー(自助努力の人)のススメ本になっている。

ただ高学歴、大企業をベースとして書かれていて、その上からの物言いは鬱陶しいし、労働市場でいえばその視野は狭い。

もちろん(あたしも)自助努力の必要性は否定しないけれど、しかしそれだけで問題解決ができるなら、世の中、政治もマネジメントもいらないのである。(こういう体育会系ノリのテクストを喜ぶ人は多いのだろうか)。

対立軸も筋肉質(単純)で、それは(城繁幸さん的には)昭和の価値観/平成の価値観となる。それを簡単に表せばこんなものか。

  • 昭和の価値観=組織>個人=滅私奉公
  • 平成の価値観=個人>組織=アウトサイダーの時代?

アウトサイダーとして

あたしは若者じゃないけれど、城繁幸さん的には(一応)アウトサイダー(自助努力の人)である。それも年季が入ったアウトサイダーであって、たいしたことはないがキャリアも一応はある。(たぶん)

そういうあたしが最近言うのは、老いも若きも「できれば会社は辞めない方がいいんじゃないの」である。だいたいアウトサイダーがなにかでうまくいく、なんていうのは、半分以上は「運」だし、努力しても報われないことの方が圧倒的に多いのである。

典型的な自助努力の人≒自営業者が、近年極端に減少しているのは、そういう生き方ができない(社会的・経済的)環境になっているからでしかないわけで、世の中、個人の時代だと喧伝されているけれど、マクロ的にみれば絶対にそうはなっていない。中小零細・個人事業主にとって、今ほど生きにくい時代はない。

もしそれを解決できる方法が、「配分の経済」なら(城さんはそう考えているようだが)、そこには政府の介入は必要なのだ。(つまり「交換の原理」だけじゃどうしようもない)。

その大変な時代に、会社のレールに乗るという、一見、楽な道(中小企業の場合、それは決して楽なものではないのだが)を選ぶ方に対して、自助努力で生きなさい、ましてや独立しなさい、なんて、あたしは(絶対に)いえない。

自分探し?

たしかに、「自分探し」などと言っては、職業を転々とされる方もおられるが、それはキャリアアップというよりも、就職氷河期の産んだ病気のようなものだろう。「自分」なんていうのは、いくら探しても、あったためしがないのである。

百歩譲って「自分」が「ある」とするなら、鏡像段階までの〈私〉が「自分」といえば「自分」のようなものでしかないのだから、とどのつまりが想像界的接続となる。「みんな」で「自分探し」などというナイモノ探しをやっているから世の中やたらと乳臭い

自分は仕事を通じてつくりあげるものだ。

「自分」はつくりあげるものでしかない、それも仕事を通じて、というのが「街的」なあたしの考え方で、つまり仕事は「」である。それはバロックの館の1階部分なのだから、たとえ小さな会社であっても就職できることは素晴らしいのである。そこでじっくり仕事に取り組んでみる(身体で覚える)、それがキャリア=自分をつくることなのであって、なんならパトリからこのフレーズを持ち出してきてもいい。

なぜ私はアナタではない私なのか

それは〈私〉が生まれ育った環境(育成環境)のことでもある。それは多くの場合、郷土や地域社会や学校や職業といった共同体性=種・中景のことであり、パトリとはパトリオティズム(愛郷主義)のことではあるが――それは国を愛するということを強要してはいない。

だからこそ、組織は人を育てる器なのであり、その意味で企業は社会的責任を負うし、政府はそういう仕組みを作り出す責任がある(今の不況は政策不況である)。時給850円の理論だけではダメなのだ。ただ、

ある時、研究対象の大手エレクトロニクス企業との打ち合わせに、私も助教(助手)も出られなくなり、N君と4年生のZ君と2人だけで出張してもらった。まるで社員のような扱いだったが、何の不自然さもなかった。

修士論文を発表して一段落してから、N君と私の2人で経営システムの見える化の方法について特許を出願することにした。私のアイデアだが具体化したのはN君だ。私の研究室では修士課程の2年間を終えた段階で、もう入社3年目から5年目ぐらいの社会人に匹敵するぐらいに成長していると言ってもいいかもしれない。

こうして学生を鍛えて成長させればさせるほど、国際的に優れた経営をしている外資系企業を目指す学生が増えてしまう。

宮田秀明の「経営の設計学」:外資系企業に就職した卒業生からのメール:濃密な人材育成戦略プログラムの内容とは…

という宮田秀明先生のご意見は、この本にも通じるもので、この手の話の支持者は多いのだろうな、と思う。ただそれは上流のこととして理解できるだけのことで、そういう人たちは放っておいても鼻が利くのである。うまくやっていける確率は高いし、そういう労働市場では、逆説的に時給850円の理論は機能する(……ではない人々に対して)。

あたしが(余計なお世話的に)願うのは、この国の多くの方々が働いている、中小零細企業、そして個人事業主(つまりあたしも含む)=「街的」が、個人が「自分」をつくりあげる場として機能することなのだ。

滅私奉公はいけない

だから組織の大小には関係なく(それを昭和的価値観と呼んでいいのかは疑問なのだが)滅私奉公が、組織にも個人にも、「自分」をつくりあげない、という意味でダメなものであることは確かだろう。

滅私奉公とは、あたしの言葉だと「種に溶けた個」である。「」は「われわれ」であるけれど、それは常に矛盾を孕んだ関係なのであって、「個」は「種」に対して常にエッジを立てていなくてはならない。組織/個の対立的矛盾は必要なのだ。

しかしそれが規模の大きな組織になるに従って無くなってしまうのは、組織の大規模化とは、リスクヘッジの進化的技法であって、「個」が責任を回避できるシステムとしては、じつに良くできたものだからだ。

が逆説的に、それは「個」を育てないシステムであることで、企業の組織的な問題(組織/個)はここに収斂する。

しかしそれを回避できるのは、個人のモチベーションなのではない。組織のシステムでありエートス(ミーム)である。あたしはそれを、「種の論理」として考えてきたし、その技術としてのIT化の理論も、「種」(組織)を壊さずに、しかし滅私ではない、を考えてきた。

「種」としての「企業」は静的なものではなく、矛盾としての「個」(従業員)を孕む――その「個」における「種」の否定即肯定という運動を原動力に「種」は変化し続ける。(静的であれば進化的に淘汰される)。

種はカオスであり、多様体であり、非合理な「分有の論理」の支配する力場であり、「野生の思考」であり、共同体の知恵の集合体であり、陰翳であり、テリトリーであり、純粋な差異なのだ。現実の世界を構成するのも、無意識の領域にうごめいているのも、内包も、外延も、いっさいの貨幣を水路に流し込んでいこうとする資本主義によって。「種」が多様体のなりたちをしていること自体が、立ちふさがる障害であったのだ。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p160-161)

わたしたち(「個」)は「種」からしか生まれ得ないことで不自由であり、「種」に対する否定性を媒介することで「個」はなりたつ。「白い恋人」もかよ――何人もその家卑の前では英雄足りえず。

しかしその関係(種の論理・中景)を壊すことでこそ、個人は自由である、という「自由の脅迫」が今の時代には強いので、「種」に対する否定性だけが際立つ。(その根源に「交換の原理」がある)。

それを真に受けた若者たちがアウトロサイダーを目指すのだろうが、いかんせんその多くは、宮田先生の教え子のようにはいかないのだ。他の業界は知らないが、あたしの関与している建設業で、新卒=即戦力は絶対にありえない。「自分」は仕事を通じてつくりあげるのである。「自分」ができあがるには時間がかかるのである(贈与の原理)。 

だからこそ、「種」を壊さずに「個」を立てる。それも個人のモチベーションに頼らずに、へ進む時代である、という意味で、あたしは今の時代を「個人の時代」だと理解しているけれど、この本はそれに似ているようだけれども、違うだろう。対立軸の幼稚さからもわかるように、結局は古いパラダイムから抜け出してはいないことで、精神論に頼ってしまっているな、と(あたしは)感じた。

Comments [4]

No.1

桃知さん、今回の記事とてもおもしろかったです。その本を、私は図書館で借りて(金がないので)、半分とちょっと読んで返してしっまたので、あまり確かな事はいえないのですが、読んだ部分の感想としては、

昭和的価値観というものは、まぁ分かるのだけど、それと対蹠的な関係にある平成的価値観というものがわかりにくく、「平成」とするのではなく、「昭和的プラスその他」としたほうがいいんじゃないのか?と思いながらよんでいました。

「平成は昭和を含む」としてしまって、さらに昭和的な人間組みのインタビューと、アウトサイダーの後悔組み(私のような人間)のインタビューを入れて置いてくれたら、もう少しバランスの取れた本になったのになぁ、と。

心理的な垣根は下がったけれど、以前、外は荒れ狂う嵐というのが現状で、その現状把握が欠けていると思いました。
つまりは、城さん、オレにもインタビューしてくれよと言うことですね。

話は変わりますが、浅田氏に左右されてしまった美術界というのもなさけない気がします。


No.2

先の私のコメントで、「依然」を「以前」と打ってしまいました。すみません。ちゃんと読み直さないとだめですね。

No.3

>コーギーさん

>つまりは、城さん、オレにもインタビューしてくれよと言うことですね。

なるほどです。(笑)
この本のつまらなさ(逆説的にはおもしろさ)は、極端な視野の狭さじゃないですかね。著者の住む〈世界〉の生活臭がまるでないので、絵空事としてしか読めない、と同時に絵空事として説得力を持てる可能性もあって、まぁ、それは読者次第のような気がしました。

今の日本の美術界はつまらないですよ。
頭でっかちで表現が追いつかないように感じています。
会田誠は、「なんにも考えてないもんねー」的な発言が鼻につくのですが、そんな発言を無視して作品を見れば、それは、あたしの神経をいつも逆撫でしてくれるのですね。
その「なんだこれは」的感覚が好きです。

No.4

桃知さん、コメントありがとうございました。

先日、城氏が関西ローカルのテレビ討論番組にゲスト出演されていて、自説を展開した城氏はレギュラー陣から総攻撃をくらっていました。
しかしそれは、城氏の引いた図式自体に疑義を呈するというものではなく、むしろそれにのっかり、昭和的価値観を体現する者として平成的価値観を体現する城氏を批判する、というか説教すると言う格好のものでした。

言われっぱなしで顔を真っ赤にした城氏を見ていて私は、あぁ、昭和は声が大きく、力もあるのだなと思いました。城氏は本を読んだときの印象と違ってずいぶんおとなしい方で、声が小さく力も感じられませんでした。

「平成を生んだのは昭和なのであって、その逆ではない」、このことを平成組みは失念しているとも思いました。


美術の事はあまり知らないのですが、
なんやこれ?というような作品も、なんやこいつ?というような美術家も少ない気がします。

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