午前7時起床。浅草はくもり。今日は午後から大阪へ出掛け夜は140Bへ行ってくる。その140B の江弘毅から、昨晩、往復書簡の原稿が届いたので速攻でアップした。
「都会」に住むのと「街」に住むのとは違う。そこを分からんとなぁ。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡
この泣きのテクストを読みながら思ったのは、最近何か寂しいなと思えば、それは江弘毅としゃべっていないからだな、ということであって、だからあたしは(たぶん)大阪まで行くのである。

いい顔したジジイ
この写真は今回の往復書簡に出てくる"おーむちゃん"こと伊藤さんである。
伊藤さんとは先月電話で話したのだが、若い頃浅草で修行されていたのだ。そしていまは店は閉めたけれども岸和田に居られる。
浅草のあたしと岸和田の江が、脳みそごちゃごちゃになりながらなにかやっているかと思えば、一人で、そして身体を使って岸和田・浅草往復書簡をやってしまったのがこの人なのである。
その写真をみれば、うちの近所のジジイ同様、この岸和田のジジイもいい顔をしているなと思う。
40歳を越えたら男は自分の顔に責任を持て?
あたしが自分の顔を鏡に写してつくづくと思うのは、そのへなちょこ顔の情けなさで、「40歳を越えたら男は自分の顔に責任を持て」とリンカーンはいったらしいけれど、あたしゃ間もなく50歳になるというのに、未だに責任を持てるような顔は持ってませんなのである。
「へなちょこですみません」なのだが、それは誰に謝っているわけでもなく、あたしと関わるすべての皆さんに謝っているのだ。
かなしい
かなしいというのは、痛いとか苦しいとかそういうものでなく、それは「誰かと別れること」や「何かをあきらめること」の必然的で根源的なかなしさです。そのかなしさが、わたしら街的人間をタフにするのでしょう。 「都会」に住むのと「街」に住むのとは違う。そこを分からんとなぁ。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡
と江弘毅は言うのだが、たぶんあたしには「かなしい」ビタミンが不足しているのだ。実際にはとてつもなく大きな「別れ」や「あきらめ」を経験してきたのに、なんであたしやこんなにへなちょこでいられるのだろう。なんで嘆き悲しみ泣き叫び激怒して戦わないのだろう。
「かなしい」が足りない
それは「かなしい」ビタミンが不足しているからだとしか書きようがないのだが、たぶんあたしはどこかで諦めているのである。
江は《「あらかじめ失われてそこにある」街の哀しさがあるわけです》と書いたけれども、自分の生活というもが、あらかじめ失われたのではなく、ただ見捨てられたものとしてそこにあるのなら、あたしの生活に起こるすべてのことに喜怒哀楽(感情)は付随しない。
なにが起きても冷静でいられるのは、それは恐ろしく孤独な個人の感覚である。1階のない2階だけの宙ぶらりんな個のモノである。
だからこそあたしは「街的」(2階)を求めて止まないのだわね、きっと。それがあたしの〈欲望〉なのか。