桃知商店よりのお知らせ

「打倒!プラスチック人生」(@バッキー井上) なテクストの書き方。

高倉屋の胡瓜の古漬けでご飯を食べる幸せ錦・高倉屋の古漬けでご飯を食べる「シアワセ」

午前5時30分起床。浅草は薄曇りの蒸し暑い朝だ。昨日、140B「京都 店特撰」にバッキー井上さんの新しいコラムをアップした。

その22 小さい店こそ俺の人生だ。「本町亭」 from 140B劇場-京都 店特撰

それは錦・高倉屋古漬けのようなテクストで、読み進めていくこと(時間が経過すること)で織り成される贈与の織物であり、生活者としての五感が生み出したイディオムである。


そのテクストは、あたしが教わってきた論文のようなものとは違った書き方なのだ。例えば論文は、結論を最初に書いてしまうし、論文的プレゼンテーションは、最初に結論を要約して話しするように訓練される。それは(共有できる言葉の世界では)快速な解釈を約束してくれるだろうが、テクストの快楽からはほど遠い。

打倒!プラスチック人生

身の回りのモノだけではなく、住んでいるところや遊んでいる街や店が、ピンクやブルーのプラスチック製のものになったり、便利さだけを追求したシャワーみたいになればなるほどシアワセは減っていく。そして本能的にシアワセが減っていることを感じるから、巧みに用意されたシアワセを発注したり購入しようとしてしまう。それにはお金が思った以上に必要なので、日々のモノをプラスチック製にしなければならなくなる。その22 小さい店こそ俺の人生だ。「本町亭」 from 140B劇場-京都 店特撰

「シアワセ」は失ってこそ見えてくるのだと思う。求めてもあらわれないが、護持しようとしても消えてしまう。それは快楽をもつテクスト同様に、織り成されるもの(プロセス=贈与)から生まれ出る日常だろう。それをあたしは「かなしい」と言っている。

「貧乏するのが欲望だ」には絶対にならない、と吉本隆明さんは言ったけれども、シアワセは〈欲望〉を諦めないプロセス(人生)の残余なのであって、〈欲望〉の結果が貧乏であっても、その貧乏の中にシアワセがあることは不思議ではない。

しかしそれも失われてはじめて見えるものであることで、その完成したかたち(織物)など誰もみたことはないのである。たぶん自分という骰子の一擲が終わる瞬間に、何か(賽の目)は、見えるのか、とあたしは思って生きているけれど。

「シアワセ」が商品として売られている、と思えるのは、〈欲望〉を諦めた人の心象でしかないだろう。〈欲望〉の別名は〈他者〉との会話であって、それは自分が「」や「われわれ」になるプロセスだ。

「街的」を書くことは、〈他者〉との会話としてのテクストでしかなく、それは自分との会話である。バッキー井上さんのテクストは、彼自身の会話であることで、〈他者〉との会話でもある――-ことで、彼は「シアワセ」が見える人なのかもしれない。

そして、その会話のなかに、あたしがいる、と感じることが出来れば、そのテクストは(あたしにとっての)快楽なのである。つまり、バッキー井上さんのテクストに快楽を感じるとき、バッキー井上さんは、他ならぬ「われわれ」であり、「」なのであって、あたしは井上さんのテクストを読みながら、他ならぬ「われわれ」であり、「」と会話しているのである。

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「酒場ライター養成講座」の編集者。

「宣伝会議」の関西本部長の松井さんがいらっしゃっ... 続きを読む

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