桃知商店よりのお知らせ

『悩む力』(姜尚中)を読む。

悩む力

悩む力 (集英社新書 444C)

姜尚中(著)
2008年5月21日
集英社
680円+税


私って誰? と悩む力

午前6時起床。浅草はくもり。昨日、盛岡から戻る新幹線の車中、姜尚中さんの『悩む力』を読んだ。盛岡-上野間は2時間20分程の移動時間だが、その時間にちょうど読み終えた。つまり読みやすい一冊ということができるだろう。

しかしその「読みやすさ」というのは、考え抜いた人だけが書ける一種の軽さなのだであり、それは中身が無いことと同義ではない。むしろ中身は詰まりすぎていて、100年前の同時代(つまり19世紀末と20世紀の初め)を生きた、夏目漱石マックス・ウェーバーをリスペクトしながら書かれたこのテクストは、一つひとつの語彙やフレーズを吟味しながら読むなら(読めるなら)、その深淵さに圧倒されるだろう。

姜尚中さんが悩んできたのは、所謂アイデンティティの問題であり、パトリの問題であり、自我の問題であり、夏目漱石がやウエーバーが悩んできたのは、資本主義(交換の原理)が共同体性を破壊する中で肥大化する自由と自我の問題である。

それは「私って誰?」というところに収斂されてしまうのだが、あたしも(あたしを育てた)公共事業という産業を考えてきて、同じところで悩んできた。つまりなぜにあたしは(ビジネスとしては殆ど成立しないであろう)公共事業という産業や地域社会を護持するのか、なぜにあたしはパトリを擁護しようとするのか、と。

これを露出させる問いは「なぜ私はアナタではない私なのか」や「なぜここが他ならにここであるのか」である。それは〈私〉や〈ここ〉の根源的未規定性を露呈させる。それは〈私〉や〈ここ〉が入替不能である理由の、その未規定さの露呈である。(from [パトリ]) 

「私って誰?」と考え始めれば、肥大した自由と自我が、その未規定さを疎外していることに気付くだろう。それは漱石やウエーバーの生きた時代の特徴であり、今という時代の特徴でもあるのだと思う。その意味では、あたしたちはリスペクトすべきよき先達を持ったことに感謝すべきなのかもしれない。

わけもわからないまま時代に流されるのはいやである
さりとて逆らって旧時代にこだわりつづけるのは
もっと愚かである

そしてそこでのあたしが選択した生き方(悩み方)は、「とりあえずは大きな流れの中で流れて、それ以上のスピードで流れることで独自性を保つ」@川俣正でしかない。それは、

わけもわからないまま時代に流されるのはいやである、さりとて逆らって旧時代にこだわりつづけるのはもっと愚かである (姜尚中:p73)

ように、失われていくものを懐かしんでいてもしょうがないということであり、だからあたしは、それ以上のスピードで流れるために「街的」とITをを選んだ、ということである。

「街的」を下敷きにITを使う。そこに開発主義という環境の中で育ったあたしの(開発主義の機能しない時代の)生き方の解を求めようとしている。それが(悩み方として)正解なのか、その先に解があるのかは知らないけれど。

けれど悩めるうちはまだシアワセなのだ、とは思っていて、なぜなら、悩めるのはまだ「希望」を捨てていないからだ。人間、希望がなければ生きてはいけない。希望があれば生きてはいける。

勿論、多くの中小建設業も悩んでいる。しかしそこに「希望」はあるのか、と言えば、悩んだあげくに強制的に「希望」をもぎ取られているのが現状ではないだろうか。

その悲しさはなんだろう。それは悩むことのできない悲しさであり、それ以上のスピードをもぎ取られる悲しさだ。あたしは悩むことのできない時代を今に感じている。それは、政治や経済、そして生活に、「かなしい」が足りない不気味さとしてだ。

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No.1

姜尚中さんの著書『悩む力』の書評を探していて、このブログにたどり着きました。ぜひ書評リンクをさせていただきたいのですが。

「人生最強の名言集」とういうサイトの中に「座右の書」として『悩む力』を紹介しているページになります。
http://jsm.livedoor.biz/

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