桃知商店よりのお知らせ

特別な才能をもたない普通の人を支えてくれるものは貨幣以外にありえない。

John Maynard Keynes自らの身を処すということは、特別の才能を持たない普通の人々にとって恐るべき問題である。とくに彼らが伝統的な社会や愛すべきしきたりといった土壌に根をもっていない場合にはなおさらである。(ジョン・メイナード・ケインズ:『我が孫たちの経済的可能性』)

かれ(あらゆる個人)は、公共の利益を促進しようと意図してもいないし、自分がそれをどれだけ促進しつつあるかを知ってもいない。外国貿易を支持するより、国内産業のそれを選考することによって、彼は自分自身の安全だけを意図し、また、その生産物が最大の価値をもちうるような方法でこの産業を方向付ける時、かれは自分自身の利益だけを意図しているのである。しかし、かれは、この場合でも多くの場合と同様、見えない手に導かれて、自分が全然意図もしてみなかった目的を促進することになるのである。(アダム・スミス:『諸国民の富』)


地方の建設業にかかる圧力

午前6時30分起床。浅草はくもり。この肌寒い朝を、ケインズとアダム・スミスの引用からはじめてみた。あたしは地域の建設業を擁護する人で、それは昨今のネオリベ的構造改革が強調される風潮の中では、第一義に改革(というか破壊)されるべきものとされてきた。あたしはその過激さに、人間の怖さを感じていたりしたのだが、ではなぜそうなのかを、次のようにまとめていた。(from  モラロジー建設部会での講演用PPT。

建設業にかかる圧力――政治経済のネオリベ化(新自由主義化)

  • グローバル化
  • 金融資本主義

を最優先することによる二極化圧力。(開発主義による平準化――足並みをそろえた発展の否定)。

  • グローバル経済圏への接続―(勝ち組)
  • ドメスティック経済圏での閉塞―(負け組)―建設業・地方

金融資本主義の破綻

今、米国の金融危機が表徴しているのは、「(米英の銀行が)この5年間展開してきた、レバレッジを拡大すればするほど儲かる金融ビジネスのモデルは、破綻した。バブル崩壊という循環的な変化ではなく、ビジネスモデル自体の破綻である」(英銀行協会会長スティーブン・グリーンのことばなのであって、それはファロスの悦楽でしかない「金融資本主義」の修正を余儀なくするだろう(たぶん)。

あたしがいうように、金融資本主義が、地方の建設業の淘汰圧力なのであれば、その修正の方向性によっては、地域の建設業はまた浮上できる可能性もあるな、と考えるは当然で(そのためには「信頼」というメタ情報獲得のための「改革」は絶対に必要なのだが)、問題はその修正の方向なのである。

そこでケインズとスミスを引用してみた。なぜケインズとスミスなのかといえば、この有名過ぎる二人の経済学者は(世間一般では正反対の立場だと思われているかもしれないが)、金融資本主義を否定していることでは(あたし的には)同じ立場の経済学者だからだし、そして、この金融危機が、グリーンスパンのいうように「100年に一度の危機」なら、学ぶべきは先達の言葉でしかない、と思うからだ。

ジョン・メイナード・ケインズ

まずケインズだけれども、たとえばこれは、サラリーマン(若しくはフリーター)のように、「伝統的な社会や愛すべきしきたり」(つまり「パトリ」のことだ)を持たない人達が拠り所とできるのは、貨幣、つまりお金だ、ということだ。今や、労働は貨幣を取得する手段以外のなにものでもなくなってしまっていることはたしかで、労働力という個人の特製を、貨幣で測られることは厭なことかもしれないが、今の市場経済の中では、そうするしかあたしたちが社会的な存在として成り立つことはできない。

それはとてもわかりやすい指摘でしかないけれど、ケインズは、だからこそ貨幣賃金は安定したものでなければならない、と考えた(というか賃金は固定的なものとしている=なので彼にとっては失業率が問題だったのだ)。

日本という国は、「特別な才能をもたない普通の人」の国だということの実証が、「自己責任」を強調した(グローバリズムや金融資本主義に友好的だった)小泉改革の仕事だったわけで、そこで繁盛したのは、「特別な才能をもたない普通の人」を時給850円(最近はこれでも高いと言われたりする)と測る派遣産業でしかなかった。

しかしそれは「特別な才能をもたない普通の人」を支えてくれるものではなく、多くのサラリーマンの賃金は下がり、フリーターはその保証の範囲以外であったし、地方の建設業は貨幣賃金の対象からも外されたような崩壊具合だった(なぜなら公共事業とは「特別な才能をもたない普通の人」のためのものでしかなかったからだ=だれでもできるから「公共事業」)。

「特別な才能をもたない普通の人」を支えてくれるものは、安定した賃金であり、その賃金が相当期間にわたって確実に手に入るという保証以外の何ものでもない、という(パトリなき)社会(安定した雇用というのは「パトリ」の機能代替えとして機能する)なのにである。

アダム・スミスの「土地と労働」

そしてアダム・スミスである。誰でも知っているスミスの有名なテーゼは「神の見えざる手」なので、その部分を引用してみたが、ここで重要なのは「外国貿易を支持するより、国内産業のそれを選考することによって」というフレーズである。スミスは重商主義を嫌った人であって、彼の経済理論の基底は「土地と労働」なのである。

普遍経済学それは重農主義的であることで、まるっきし「普遍経済学」的なのであり、つまり、あたしは、アダム・スミスは嫌いじゃないのだ。このテクストを最後まで読めばわかるかと思うけれど(たぶん)、あたしがIT化でやろうとしている「自分のためにしたことが「われわれ」のために成りえるシステム」というのはアダム・スミス的なのである。

スミスをナイーブに、なにがなんでも「自由放任」(レッセ・フェール)の人だと思っている方には受け入れられないかもしれないが、それは『諸国民の富』(富国論)を読んでいないからであって、ちゃんと読めばわかる(たぶん)。

引用にもあるように、スミスがいう、レッセ・フェールが機能する条件というのは、「外国貿易を支持するより、国内産業のそれを選考することによって」なのであり、なぜ「国内産業」なのかといえば、スミスが、経済の安定的成長は、土地に結びついた労働によってもたらされる、と考えているからだ。

そしてそれが、自分自身の利益だけを意図しているにもかかわらず、多くの場合と同様、見えない手に導かれて、自分が全然意図もしてみなかった目的を促進することになるのは、「浅草は利己的な街なのである。だからこそ戦略的に利他的なのである。」からだわね。

ということで、世界の経済政策の風潮は、国内産業重視で貨幣賃金の安定に向かう、とい希望を書いてみる。その風のなかで、公共事業という産業は、ほんとの信頼を得られるのかの正念場を迎えることになるだろう。まあ、ほんとのことを言えば、今回の金融危機はどうなるか、さっぱりわからないのだけれどもね。ただ、あたしは、今回の金融危機が収束される過程で、経済政策が、そういう方向に向かうことを願っているってことだ。

Comments [4]

No.1

こんにちは。
現在ハイエクの自生的秩序の意義について調べております。これに関してはネオリベの拠り所としての側面が強いですが、むしろ現在の経済的状況は(人の活動全体まで含めた)秩序の形成を阻害している面が多いという問題があります。

その「自生性」について、本当に可能なのかとミーゼス、ハイエク、シュッツなどにより議論がなされたことがあります。ハイエクは結局ポラニーの「個人的知識」や複雑系を採用することになったのですが、シュッツは日常生活での行為のつながりとレリヴァンス(その行為が場に適したものか)が鍵だとしました。

残念ながらシュッツは早く亡くなってしまい、ハイエクが日常の秩序を検討することはなかったようです。しかし、私には日常生活と自生的秩序のつながりこそが重要だと思えるんですよね。

自由は日常生活の秩序があってこそ引き立つものだし、逆に日常生活なきところ(合理性、ビジネスの次元)に自由を導入することで悪い結果が生まれています。ネオリベはそこを理解していません。

記事中のレッセフェールの議論とは少し違いますが、私は高官が得ています。

No.2

「マクドナルドのある国同士は戦争しない」(Thomas Friedman) というように私はもう世界が(好むと好まずにかかかわらず)町内会化していると思ってます。
でも町内会の中でもいざこざはあり(「ごみ捨てのルール」=「京都議定書」?)隣同士にコンビニがあって競争したりします。

しかしその文脈の中で建設業というのがあまり語られることはありませんね。住宅メーカーの場合あまりにも「設計思想」と「建築基準」が国によって違い大量生産によるコストカットができにくい、ノウハウが国際化できない、ということは聞いたことがあります。

「自分」のしたことが「われわれ」のためになる、の「われわれ」は「世界」ということでもいいんじゃないか、と思いますがどうなんですかねぇ。でもこの「下町ハイボール」は国際展開は無理だなと、結論づける「亀屋」での夜でありました。

No.3

>二流さん

お、難しいところ勉強されていますね。

>自由は日常生活の秩序があってこそ引き立つものだし、逆に日常生活なきところ(合理性、ビジネスの次元)に自由を導入することで悪い結果が生まれています。ネオリベはそこを理解していません。

その通りです。
モナドとしての個人が、ただの粒だと考えることから、すべてのシステム設計が狂ってしまていますね。

No.4

>鉄蔵さん

亀屋に行ってたんですね。
亀屋の「われわれ」である下町ハイボールは、ついつい飲みすぎてしまうことで、「われわれ」がかなりボロボロなものであることを象徴していますね。
カントクの角の水割りもかなりボロボロですね。
「われわれ」はボロボロのあつまりなんですよ(たぶん)。


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