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『ハイエク 知識社会の自由主義』 池田信夫 を読む。

ハイエク 知識社会の自由主義

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書 543)

池田信夫(著)
2008年9月2日
PHP研究所
700円+税


ハイエク
嫌いじゃない

ハイエクは、経済学的にはオーストリア学派のリバタリアンであることで、(町内会的なあたしは)ハイエクを嫌っている、と思われる方が多いかもしれないが、あたしの少ないハイエクに対する知識や、池田信夫さんのこの本を読む限りにおいては、ハイエクは嫌いじゃないし、今、ハイエクの思想を考えてみることは、無駄なことではない、と思う。

というよりも、あたしは(ハイエクに限らず)真性のリバタリアニズムの、ナショナリズムと対立する姿勢に、共感さえ感じていたりするし、それはナイーブなものであることは百も承知なのだが、リバタリアニズムの、首尾一貫した個人の自由を尊重する立場は、あたしが毛嫌いしている新保守主義(ネオリベ)とは、対極のものだ(と理解している)。

3種類の経済学的リバタリアニズム

森村進さんによれば、経済学的なリバタリアニズムには3種類あって、それぞれが異質な自由擁護論を持っている。

  1. 新古典学派
    市場経済は、長期的にみれば、市場は均衡に達し、パレート最適の意味で効率的な資源配分をもたらすから社会的に望ましい。しかしそのためには完全雇用や有効需要促進を目標として政府が市場に介入することを認める。つまり現実の市場は完全情報の競争社会ではないという理由によって、資源の効率的配分のための市場への政府の介入を正当化するが、そのことで、ケインズ的発想にも賛成するからリバタリアンとはいえない。
  2. シカゴ学派
    市場へのケインズ的介入を否定する。しかし市場が長期的には均衡して有効な資源配分を達成するという市場観を新古典学派と共有する。
  3. オーストリア学派
    常に変化する不確定性に満ちた世界では、個々人のそれぞれ異なった計画を調整して社会の繁栄と平和を実現するためには私有財産を認める自由主義経済しかないと考える。仮に完全情報が実現されていれば、効率性という点だけからすると計画経済でも構わないが、実際には市場が完全市場でありえないからそこ、知識の発見と企業家的活動を促す自由な市場経済が必要だとする。
    (以上、森村進:『自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)』:p26-28の要約)

あたしは上の分類でいえば(1)に近い、というよりも経済政策的には殆どケインジアン的ヘタレを自覚しているのであって、もちろんリバタリアンではない。ハイエクは、もちろん(3)のオーストリア学派の人だ。

けれど同じ学派でも、ミーゼスは合理主義的な制度設計の可能性をいうし、一方ハイエクは、合理性を否定し、「自生的秩序」を尊重する立場だったりするわけで、つまりリ同じ学派内でも立場が違ったりする(それがリバタリアニズムの理解の面倒さだろう)。ただ、あたしがハイエクを"嫌いじゃない"というのは、なによりも彼のいう「自生的秩序」ゆえだ。

自生的秩序

「自生的秩序」というのは、あたしたちの語彙では「街的」であり「町内会」であって(それは「ムラ社会」とは違う広義の自営業者のルールだ)、無理矢理に、形式合理性・理論合理性・実質合理性・非合理性・実践合理性・超合理性でいうならば、「実質合理性」(第Ⅱ象限)と「実践合理性」(第Ⅳ象限)のことだ(たぶん)。

形式合理性・理論合理性・実質合理性・非合理性・実践合理性・超合理性。(GC空間)

実質合理性(第Ⅱ象限)
  • 定義:停止することのない経験的出来事の現実の流れが、「妥当な聖礼典」に照らして、選抜され、測定される独自の「規準」。
  • 特徴:価値前提は包括性、内的整合性、内容を異にする諸価値の全体的な集まり。
  • この立場は、多様な仕方で生活様式全般に秩序を与える。
  • 一定の文化的価値前提のもとでの諸価値に合致した形で目標を達成する。
  • なので異なる価値前提のもとから見れば非合理的なものとなる。
    → 価値合理性
実践合理性(第Ⅳ象限)
  • 定義:個人の純粋に実利的・利己的な利害と関係する世俗的活動を実践的・合理的とみなし、またそのように判断する。
  • 特徴:実践合理的生活様式は目前の現実を受け入れ、当面している困難を処理するために最適の手段を計算する。
  • 日常の限定された生活体験のなかで特殊な目的を達成するために最良の方法を考える。
  • これは所与の現実を受け入れた行為者の主観的な枠内での合理性である。
  • なので他者から見れば非合理的であることもある。

町内会的非合理は創造性の素なのである。

これらはローカルルールでしかないことで、他の町内会からみれば非合理的であることもある。ハイエクにいわせれば、それは「部族社会の感情」かもしれないが、あたし的には、そんな非合理性さえ孕んだものが市場なのであって、それと合理的な制度設計(第Ⅰ象限)のハイブリッドが、超合理性(経済的成長=経済的な創造性)を生み出し得る、と考えている。

繰り返すが、「街的」や「町内会」とあたしが呼んでいるものは、正確には「ムラ社会」のルールとは違う。それは「種」に溶けないエッジの立った「個」を前提とすることで、個人の自由を尊重する。ただし「個」は「種」からしか生まれえないのよ、ということだ。

つまりそれら(合理性/非合理性)は、対立するのではなく"補うもの"としての関係として存在する。それをあたしは「非合理に合理を上書きする」と言ってきた(それは塗りつぶすことではなく、非合理な足場――パトリ――をもって、目的合理性をも受け入れる、ということだ)。

ハイエクは、市場は設計によらない自由な秩序だという(つまり「自生的秩序」)。その市場こそが、知識の発見と伝達をと利用という機能を、計画経済よりもはるかに立派に達成する、というのだが、それは、あたしのいう、「浅草は利己的な街なのである。だからこそ戦略的に利他的なのである。」なのであって(たぶん)、それに対しては異論はない。

けれど、それで社会全体(大きな社会)を考えてしまったのだから恐れ入るのだ。それは「個」が〈世界〉と直接接続している状態であって、つまりハイエクには中景(種・街的・町内会)がないのである。(「ハイエク問題」の根源はこれじゃないのだろうか)。

町内会至上主義のあたしでさえ(だからか)、そんなことは考えもしないわけで、町内会(種)中心だからこそ、「類」としての国家を考える。普遍経済学のトポロジーたとえばハイエクの考えたことは、「贈与の原理」を基底にもつ共同体性を排除しようとする「交換の原理」の動き(つまり米国ヘゲモニーの金融資本主義)さえ、「自生的秩序」としてしまうことだろう。

しかしそれは、「交換の原理」の優位性を、人為的に作りだした(米国の)ローカルルールに過ぎないわけで、本来の自生的秩序の根源である「贈与の原理」を人為的(合理的)に排除してしまうことで「自生的秩序」ではなくなってしまうのじゃないだろうか。

しかしそんな「自生的秩序」でないものが一旦暴走をはじめれば、それをつくりだした者でさえ、その暴走を止められない。なぜならそこでは、その暴走をけん制すべき「贈与の原理」(「自生的秩序」の根源)が、ほとんど機能不全になってしまっているからだ。

「自生的秩序」というのは、「種」(贈与共同体)に起源を持つローカルな合理性でしかなく、それは「交換の原理」からみれば非合理だというだけのことなのである。「贈与」を基底に持つ町内会では、「交換の原理」を強調する方が非合理なのだ(というか嫌われる)。

けれどもその両方がなければ、(グローバルな経済においても)「知識の発見と伝達をと利用という機能を、計画経済よりもはるかに立派に達成する」こともできない(第Ⅲ象限=世界とつながるための非合理性=表出的要素=創造性=イノベーションは機能しない)だろう、と(あたしは)思う。

インターネットが普通にある時代のハイエク的

池田信夫さんは、こういっている。

ハイエクの進化論的な経済思想は、現代においても意味がある。というより、これからますます大きな意味をもつだろう。情報ネットワークが社会のインフラになる知識社会のあり方を考えるうえでも、情報コストをゼロと仮定する新古典派経済学は何の役にもたたないが、ハイエクは多くの示唆を与えてくれる。(池田信夫:『ハイエク 知識社会の自由主義』:p188)

あたしは、インターネットは普遍経済学的に成長してきている、と考えている。それをハイエク的にいえば、「贈与」と「純粋贈与」と「交換」の、三つ巴から生まれた「自生的秩序」だ、といえるだろう。その意味でハイエクは、たしかにインターネットが普通にある時代に生きている。

それが可能であるのは、インターネットを技術的に支えてきた方々が(そしてインターネットの可能性を信じてきた方々が)、贈与と純粋贈与の可能性を信じていたからこそだと思う。Web化する現実、現実化するWeb

それは、反体制的イデオロギー、資本主義のゲームを全肯定するリバタリアン、無邪気な技術信仰という、(ナイーブでユートピア論的でしかない)カルフォルニアン・イデオロギーであるには違いなく、お金ががBitになることで、Webと現実はキアスム的に近づいていくのもたしかだ。(ウェブ化する現実、現実化するウェブ

そしてあたしが(CALSの失敗を通して)感じてきたのは、国が主導する取り組みの(インターネットにおける)無力さでもある(それはハイエクの言っていることを実証してしまった)。

しかし資本主義のゲームを全肯定するリバタリアンがつくりだしたインターネットの世界には、「贈与」という、時間軸に沿って変化する運動が機能していることもたしかだし、「純粋贈与」という時空をもたない力も働いている、と(あたしは)思う。(このあたりは今まで散々書いてきたので説明は省略)。

それは、資本主義が、単純な「交換の原理」だけで動いているのではない、といういことを物語っている、と(あたしは)思うのだけれど、その均衡点なんて(今の時点で人間が)見い出していないこともたしかだ。

ただ資本主義を機能させようとするなら、「交換の原理」が壊してきた「贈与(共同体)」や「純粋贈与」といった、今や弱々しい次元の運動も守る必要がある(そしてそこには「類」としての国の行う「贈与」も「純粋贈与」もある)、と考えているのが、あたしなわけだ。そんなあたしにとってハイエクを考えることは楽しい(全面的に賛同しているという意味ではない)ことでしかないし、この本は、入門書として大変楽しく読むことができた。

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