成長経済の終焉

成長経済の終焉―資本主義の限界と「豊かさ」の再定義 (Kei books)

佐伯啓思(著)
2003年7月10日
ダイヤモンド社
2000円+税


改革なくして成長なし

平成13年度年次経済財政報告(経済財政政策担当大臣報告)―改革なくして成長なし―「構造改革なくして経済回復なし」若しくは「改革なくして成長なし」というのは、小泉政権のスローガンで、「平成13年度年次経済財政報告(経済財政政策担当大臣報告)」では、ご丁寧にサブタイトルにさえなっている。

このフレーズは、その後も教義のようにして一人歩きし、生き残り、つい最近まで、テレビ村はこのフレーズに洗脳された方々の時代だった。

それはテレ・ポリティクスが、マーケティング的に「みんな」の熱狂的支持を受けたということであって、マスコミ(テレビ村)は、大衆迎合のあまり、これ以外の教義があることを忘れてしまった。

そのテレビ村の態度は世論と同義とされ、テレビ村の後押しを受けながら、まず改革すべき構造としてやり玉にあげたのは、公共事業に頼った(開発主義的な)地方のあり方である。

それは「自己責任」が強調される中、壊せば自己責任で新しいものは生まれる、というべらぼうな理論で、改革ならぬ破壊の対象とされてしまった。そのことで、開発主義の毛細血管的役割を担っていた地方の中小建設業はほとんど壊死状態となった。

「構造改革なくして経済回復なし」がアホである理由

あたしは「改革なくして成長なし」を本気で信じている「みんな」はアホだと言い続けてきた。だから「改革なくして成長なし」を教義として受け入れている「みんな」からは、あんたはアホだと言われてきたのは当然でしかなく、(今時)公共事業という産業を擁護するヘンなIT業界人であることは自覚している。

もちろんあたしは、「公共事業という産業」に改革すべき点(構造的な問題)があることは否定しないし、その問題解決手法としてのIT化をやってきた(つもりだ)。

しかしそこで起こる構造の変化とは、人々の意識的なものであり、精神的なものであり、つまりは「公共事業という産業」にいる人々の気持ちの変化なのである。そしてその変化は時間をかけてあらわれるものでしかない。

つまり構造改革とは時間がかかる変化であることこそが、「構造改革なくして経済回復なし」がアホな理由なのである。それは景気回復は構造とは関係がないということだ。

構造改革と景気回復は違う時間軸で動いているのであって、一国の経済構造を改革するというのは、その構造を作り出したのと同じかそれ以上の時間が必要なのである。それに対して景気回復というのは短期のスパンで考えるものでしかない。

それは教科書的経済学を勉強した人なら、だれでも気がつくことでしかないはずなのに、「構造改革なくして経済回復なし」を喧伝した経済学者、エコノミストばかりがもてはやされ、その対極の人たちの意見は抹殺されてきた。恐ろしきは「世論」という「正解の思い込み」なのだろう。

思想の自由

そして今、「構造改革なくして経済回復なし」を言う人は希少種(絶滅危惧種)になった。それは、現実が(「構造改革なくして経済回復なし」という)幻想を超えてしまっているからだ。

「改革なくして成長なし」は普遍の教義などではなく、ある時代を象徴したフレーズでしかなくなった。急激に古くなってしまったヒット曲のようなものである。そのことで親玉の小泉さんは引退することになり、小泉チルドレンは支持してくれる「みんな」を失った(ことでさようならなのである)。

もう力を失ったものを今更に批判する気はない。ただ今の時代は、「みんな」にあった思考的なバイアスがとれた可能性が高いことで、「構造改革なくして経済回復なし」の衰退は(あたし的に)うれしい。

もちろんそれは、今の恐慌型経済がもたらしたものには違いないなく、つまり、ナイーブな個人主義や、グローバリズム、新自由主義というような(英米流金融資本主義の底辺に流れる)教義に侵され加熱した脳みそが、少しは冷静になっているだろうということだ。

たとえば今、佐伯啓思さんの(2003年に書かれた)『成長経済の終焉―資本主義の限界と「豊かさ」の再定義』(に限らず佐伯啓思さんの一連のグローバリズム批判)を読めば、今何故に世界経済が恐慌型経済になってしまっているのかがわかるだろう。

それがわかるということは、「構造改革なくして経済回復なし」というバイアスから開放された「」があるということであって、意識的ではないけれど、「象徴の一部否定」ができたということなのだ。それが「思想の自由」の第一歩なである。人間にはそれ以上の自由はないのである(たぶん)。ということで、午前7時50分起床。浅草はくもり。