マクロ経済学 ミクロ経済学
主体(単位) 国民経済 経済人(消費者・企業)
中心 変数 Y(国民総生産=国民総所得) P(価格)

午前8時30分起床。浅草はくもり。researchArtisan_logoこのサイトで使う「ミクロ的には」とか「マクロ的には」というときの、ミクロとマクロってなに?というご質問があったので簡単に書いておこうと思うのだけれども。

ミクロ経済学

ミクロ経済学の主体は経済人ってことになる。それは消費者である個人と企業であって、消費者は効用を最大化するし、企業は利潤を最大化する、という前提で経済活動をみること。つまり完全競争の下では、経済人は価格(P)を所与のものとして行動する、という前提(経済人仮説)で経済を考えること、というか、そういう個人の視点から経済を考えてみること。

使用例
小さな商店がやっていけない街は中央資本に食い荒らされ、郊外化の残骸と化しミクロ的な共同体(たとえば「街的」)も衰退する。地方の衰退、ミクロ的な共同体の衰退こそがこの国の国力弱体の象徴なのだ。いまは亡き「日本型資本主義」を悼む―惜しい制度を亡くした……とロナルド・ドーアは言う。from モモログ

マクロ経済学

マクロ経済学の主体は国民国家だから視点は大きくなる。ケインズモデルでは、国民経済は有効需要に等しく国民総生産をすることになっている、という前提で経済を考える。国民総生産は、消費と投資の合計。

使用例
経営を取り巻く、マクロ経済こそが、建設業の経営を左右しているのはたしかで、まあそれは、どんな産業においても同じことだ。アメリカのような自由放任主義(レッセフェール)的な経済システムにおいてさえ(だからこそか)、金融危機が起これば、住宅だけではなく、すべては売れない。 社長の仕事。 from モモログ

経済人仮説

マクロとかミクロといっても、観察(考察)しているは同じモノであり、それは経済ってことになる。ただそれは人の営みであることで、ミクロ的に(各自が)正しいと思っていることを全員でやったら、全体として(マクロ的に)はとんでもない結果になってしまった、ということはよくあることで、これが合成の誤謬(ちがうか?)。

逆にマクロ的な部分しか見ない政策なんかは、その政策がもたらす個々人の痛みとか、心理とかを見逃してしまうこともある。

つい最近まで日本は好景気だったのだけれど、国民の多くは、それを実感として感じていなかった、とか、景気対策(消費の拡大)でおこなわれる給付金が、貯蓄に回されて消費にあんまりつかわれなかったり、とか。

グリーンスパンさん曰く、人間心理は「陶酔と恐怖心の間で大きく変動し、何世代にもわたって何度でも繰り返し、過去の経験から学んでいることを示す事実はほとんどみられない」なのであり、だから彼得意の計量経済学でも、今回の金融危機を予測できなかったわけ。 

つまり問題は、両方が立脚している「経済人は価格(P)を所与のものとして行動する」という経済人仮説にあったりする。この条件を変えてやると違った経済政策が導き出されたりするので、行動経済学なんていうのが流行っていたりするわけだ(たぶん)。

だけど、そんな変数をいちいち考えていたりすると面倒だし、政策が手遅れになったりするので、便宜上、「経済人は価格(P)を所与のものとして行動する」という経済人仮説でやってみて、それでダメなところは後追い的に修正するっていうのが現状。まあこんなものなので経済学は確立された科学ではないのだわね(だからあたしのような素人が口を突っ込めるわけ)。