行きがかりじょう 『チョット酒場な、話の肴―行きがかりじょう』

バッキー・イノウエ(著)
2004年7月25日
600円(税込)
百錬文庫

午前7時起床。浅草は晴れ。暑気払い、新年会の常連さんであるSさんから、バッキー井上さんの『行きがかりじょう』が郵送されてきた。Sさんは京都にでかけたついでに、錦・高倉屋で井上さんにお会いし、おまけに百錬※1で飯を食べ、この文庫本を手に入れ、わざわざあたしに送ってくれたのだ。

あたしは「行きがかりじょう」京都 店特撰の管理者なので、特権的にバッキーさんのテクストは読んでいるが、これが縦書きの右から読むテクストだとまた感じが違うな、と羽田と熊本を往復する飛行機の中で感じ入っていた。

そのテクストまるで詞なのであって詩ではない。つまり歌詞であって歌である。その歌は演歌でもなければ、ジャズでもないし、シャンソンでもない。ましてやクラッシックであるわけもなく、それはレゲエである。それもタイトでスピード感のある、たとえばジミー・クリフの「ハーダー・ゼイ・カム」である。

それは街場のチンピラの、けれども革命家の、しかし挫折を味わった男の歌だ。だからチンピラのような革命家という非生産的な者が存在することを許さない人達は、井上さんのテクストを許せないだろう。そのテクストは、ほぼPCM(偏執症的批判方法@サルバドール・ダリ)なのであり、呪術なのだ。つまり思想なのである※2

思想を読むには根性がいる。けれど根性がなくてもこの本が読めてしまうのは、それが歌だからだ。歌には、これは私のことを歌っている、と感じる最大公約数というトリックがある。しかし中央フリーウェイの競馬場もビール工場も、みんな知っているのである。あなただけのものではないのである。

一般的な表現は私的なものを切り捨てて成り立つ。けれど歌は「私」の秘密を隠しながら「みんな」の表現を目指す。 井上さんのテクストは歌である。けれどそれはあきらかに最大公約数ではない。そこにあるのはバッキー井上という「」である。その「」をぎりぎりのところまで表出させながら、「みんな」ならぬ「われわれ」の表現を目指す (だからこれは民族の歌なのである。だからぜったいに大ヒットしない。けれど民謡の様に響く人のこころには届く)。

それは「」と「われわれ」の最小公約数なのだ。しかし最小公約数というのは世の中では考えるだけ無駄なものなのである。どんな整数の組み合わせでも、最小公約数は、常に「1」でしかない。なので数学的には「最小公約数」という概念自体、考えるだけ無駄なのであり、誤字である。

けれど「街的」を書く人は、それが無駄であることをわかっていて書いている。無駄であることをわかってやっているのだから、最小公約数は誤字ではなくなる。そして「街的」を書く。それは「街的」の最小公約数の「1」を求めることだけれど、「1」を求めながらが「1」に近づきすぎてしまい、しまいに「1」ではないものをそのテクストに孕ませてしまう。※3 だからそんな「」が書いた最小公約数の「1」に纏う「1」でないものをみつけてしまうことが「街的」を読むことである。 

錦・高倉屋のすぐき漬けでもそんなことに気付くのはごく一部の暇人だけだから(それを「われわれ」という)、「みんな」も気楽にこの本を読んでいいのである(読む機会があればだけれども)。

ただ、この本を読んで京都に行きたくなるかといえば、あたしはあんまし行きたくなくなる。京都の常連にはならない方が身のためだと思ったりする。あたしが浅草に住んだようには京都には住めない(たぶん)。死ぬまで一見さんでいた方が、京都とはいい関係でいられるような気がする。

生まれ育った街から離れて暮らしているあたしは、好きなんだけれども近づけない、好きだからこそ入り込めない、そんな純情と距離感からしか、その街との「行きがかりじょう」は生まれない(ような気がする)。しかし異邦人がその街に惚れるということは、その距離感を誤ること、のめり込みやがて身を持ち崩していくことなのだ。だから街はいつでも惚れた女なのである。だから、あー、と今夜も酒場に通うのである。

※注記

  1. 百錬:この店は2002年のワールドカップの年に俺が始めた。いろいろある。「居酒屋たつみ」でお会いした老紳士が「君はここで店をやりなさい。やればいい。やるべきだ」と言われて行きがかりじょう始めた。 from その26 酒場ライター養成講座の始まり。始まりはいつも雨降りか。あったな。「百練」 from 140B劇場-京都 店特撰
  2. PCMは、概念的リサイクル活動によって、すり切れ消耗した世界の中身がまるでウランのように再びエネルギーを充填され豊かさを取り戻すことを、そして贋の事実とねつ造された証拠の永遠に新たな生産作業がたんに解釈行為のみによって可能になることを約束する。(レム・コールハース:『錯乱のニューヨーク (ちくま学芸文庫)』:p400)
  3. 「かしみん」ってなんだ―「街的」を書くには、ちょっと根性が要るで、と江弘毅は言う。 参照。