企業スポーツのトポロジー


不況のあおりで企業スポーツの撤退が相継いでいるが、企業スポーツを、普遍経済学的にトポロジーとして表現すれば、上記の図となるだろう(たぶん)。それは企業がこければ皆こけるの図である。ではあたしはスポーツというものをどう考えていたのかと云えば、普遍経済学的(というか町内会的)には下の図のようになるはずである。

普遍経済学的スポーツの三位一体モデル

これはサッカーや野球の地域リーグが目指しているトポロジーで(たぶん)、スポーツというのは純粋贈与の位置にある。純粋贈与とは自然のことである。もちろんスポーツを支援するということは――スポーツが人間がおこなうモノである限り――人間という自然が対象となる。

それは時間をかけてスポーツをする人間を育てる行為である。 

もちろんその世話をするのは「贈与」であって、つまりは共同体である。それが企業だけになってしまっていたことで、この国は(スポーツに限らず、あらゆる場面で)行き場を失っているのである。

つまり、人間という自然の世話をするものは、スポーツだろうが、若者(働く者)だろうが、文化だろうが(とっくの昔に死語になった企業メセナ)、「社会の厚み」であるべきなのだ。それが接続可能な経済が、たとえ小さなものであろうとも、今回のような経済危機に、多くのアスリートや若者の可能性を奪うこともなかったのではないだろうか。ということで午前6時40分起床。郡山はくもり。