建築家 安藤忠雄

建築家 安藤忠雄

安藤忠雄(著)
2008年10月25日
新潮社
1900円+税 

「……現実の社会で、本気で理想を追い求めようとすれば、必ず社会と衝突する。大抵、自分の思うようにはいかず、連戦連敗の日々を送ることになるだろう。それでも挑戦し続けるのが、建築家という生き方だ。あきらめずに、精一杯走り続けていけば、いつかきっと光が見えてくる。その可能性を信じる心の強さ、忍耐力こそが、建築家に最も必要な資質だ……」(p366)


種の論理としての安藤忠雄

あたしは一応建築の技術の有資格者だけれども建築家ではない。なぜなら建物を設計したことがないからだ。そもそもその資格だって、成り行きで取得したようなもので、いってみればペーパードライバー、資格行政への苦肉の策の結果である。

そんなあたしでも安藤忠雄さんの名前ぐらいは知っている。知っているどころか、彼の初期の作品のストイックさが好きで、何件かは実物を見に行っていたりする。

安藤忠雄さんは闘う建築家だ。その闘いは、本来、人間の生きる営みとしての共同体がもつ地図と暦の豊かさを「商品」として消費してしまおうとする安易な流れ(経済至上主義)へ向けられている。

しかし都市の豊かさとは、そこに流れた人間の歴史の豊かさであり、その時間を刻む空間の豊かさだ。人間が集まって生きるその場所が、商品として消費されるものであってはならない。(p144)

これはあたしのような町内会的人間の心象には溶け込むものだ。

そして彼の初期の作品――たとえば〈住吉の長屋〉――は、まるでモナド-バロックの館なのであって※1、たぶんそれが安藤忠雄さんの考える「個」というものだろうぐらいの想像力は働く。

パトリとしての共同体性をいうあたしは、それ故に個人の情熱の必要性をいう。それがこの自伝を読むと、だいたい当たりかなと思えてくる。

自由で公平な社会を支えるのは、個人のエゴを超えた公共の精神である。だがその精神のもとに、人々が集い、共に生きている喜びを実感できる場所と時間――真の意味でのパブリックと呼べるような施設をつくるのは、国や公共ではない。人々の人生を彩る文化を創り、育んでいくのは、いつの時代も、強く激しい個人の情熱である。
彼らの情熱に応えられるような"命"ある箱を、私はつくっていきたい。(p229)

まるでパトリ概論なのである。あたしは一点の迷いもなく、この意味がわかる(つもりでいる)。だからあたし流にいえばこうなる。「彼らの情熱に応えられるような"命"ある(ITの)システムを、あたしはつくっていきたい。」 

あたしは共同体性を破壊するモノのオルタナティブとしてのシステムを考えてきた。そしてそれを唯一の商売としている。だからなんでも商品にしたい人達、なんでも商品にするために、共同体のもつ贈与を破壊し、地域コミュニティを分断し、個人をアトム化しようとする人たちからは無視されるか非難されてきた。

しかしあたしが共同体性を破壊するモノに抗して闘ってきたのは、「自由で公平な社会を支えるのは、個人のエゴを超えた公共の精神である。だがその精神のもとに、人々が集い、共に生きている喜びを実感できる場所と時間――真の意味でのパブリックと呼べるような施設をつくるのは、国や公共ではない。」と考えているからだ。やっていることは安藤忠雄さんの足元にも及ばないけれども。

情熱の人

この本は彼自身による建築家 安藤忠雄、つまり自伝である。それは文章がうまいとか、おもしろいとかのレベルを超えていて、読み始めたら最後、途中では終われなくなる。

なぜなら、この本に詰まっているのは闘う者の情熱だからだ。この本を読めば、鈍重なあたしの精神にも、闘う者の情熱が舞い降りてくる。

闘え!えぶりばでぃ!なのである。バイアグラの100倍は効く(たぶん)。途中で止めたら、その情熱が消えそうで怖い。なので止められないのである。

ということで今日は山鹿まで出張。午前7時起床。浅草は晴れ。

※注記

  1. 〈住吉の長屋〉は四周が壁で囲われ、入り口意外にはいっさいの開口部がない。ただ中庭があってそこが世界とつながる窓なのである。「バロックの館―モナド」 参照。