ピカソ ――巨匠の作品と生涯 Kadokawa Art Selection (角川文庫) (文庫)

ピカソ――巨匠の作品と生涯 Kadokawa Art Selection (角川文庫)

岡村孝夫(著)
2009年2月25日
角川文庫
667円+税


午前7時起床。浅草は晴れ。風邪気味で不調である。この本は札幌駅構内の書店で購入し、浅草への帰路ずっと読んできた。なぜにピカソだったのかといえば、帰りの時間の暇つぶしである、じつはなんでもよかったのだけれども、数ある本のなかにピカソの絵が浮き上がって見えたというのが大きな理由なのであって、この表紙のアイキャッチ効果は抜群なのである。

あたしはピカソの「ゲルニカ」と「泣く女」ぐらいは知っている。キュビズムという言葉も知っている。しかしピカソは知らない。それじゃこの本を読んだら少しはわかるようになったかといえば、そもそもピカソを知らないあたしには(ピカソは)相変わらずなんだかわからない人でしかない。

わからないものを知ろうとするのは人間の本能のようなものだろうが、しかし人間はなんだかわからないモノに出合ったときには99%は無視するのである。

「なんだかわからないもの」に出会ったとき、人は二つの行動を選択しうる。

  1. 「なんだかわからないもの」を「なんだかわかるように」しようとする
  2. 無視する

《下水道談合復活》―なんだかよくわからないものの扱いについて。 from モモログ

しかしその「なんだかわわからないもの」が自分の興味の対象になったり、無視できない存在になったり、世間噂の対象となったりすると、無視もできないので(ほんとは無視してもいいのだけれども)、「なんだかわからないもの」を「なんだかわかるように」しようとすることを仕事にしている人たちの言葉を鵜呑みにしてなんだかわかったような気になるのである。それで少しは安心したりする。

つまりあたしにとってピカソについて書かれた本を読むということは、多かれ少なかれそういうことなのだ。

しかしそれは、知ろうとすることの消費でしかないわけで、本当はわかったことにはなってない。自分では何も考えていない。たしかに読書の醍醐味というのは〈他者〉の脳みそで考えるということなんだけれども、絵画や映画や音楽のように「作品」が伴うモノとなるとそうもいかない。

それはホッピーを一度も飲んだことがないのに、ホッピーについて書かれた記事を検索して、読んで、なんだかホッピーがわかったつもりになっているようなものであって、ホッピーをわかろうとするならば、ホッピーを飲んでみるしかないのである。ほんとうは。

であればピカソをわかろうとするなら、本物のピカソの絵を見に行くしかないのだろうなと思うのだ。この本を読んで思ったのはそういうことなのであって、あたしは無性にピカソを見に行きたくなった。しかしどこへ行けばいいのかわからないでいたりするのだわ。