映像の修辞学

映像の修辞学 (ちくま学芸文庫)

ロラン・バルト(著)
蓮實重彦+杉本紀子(訳)
2005年9月10日
筑摩書房
880円+税


パンザーニの広告

そのシニフィアンはトマト、ピーマン及びポスターの三色(黄、緑、赤)の結合である。そのシニフィアンはイタリア、とうよりもむしろイタリア性である。この記号は(パンザーニというイタリア的母韻、という)言語的メッセージの共示記号と冗長ルドンダンスの関係にある。

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このブログが画像を多用しているのは、テクストで書ききれないものを画像に語らせようとしいているから。といえないこともないのだが、しかし本当のことをいえば、まず画像(写真)があって、テクストはその画像を説明している、もしくは画像のメッセージを言語化しているに過ぎない。というものが多い。

それはテクストを画像が説明しているのではなく、テクストは画像の従者でしかないというありさま。それもあたしのかなりエゴイスト的な楽しみであって、その快楽は想像界以外のものではなく、なんで面白いのかが自分でもわからないでいる。この遊びを可能にしている道具 Picnikについては別途ご紹介したいと思う。※1

あたしの日常は記録の日常であり、PCやインターネット上にあるデバイスは、このサイトで紹介されている画像の数千倍(もしかすると数万倍)の画像に溢れ、それはデジカメで撮った写真ばかりでなく、仕事中に撮ったスクリーンショット、スキャニングした画像、余所からダウンロードした画像等々……デジタルな画像。

それらは間違いなく「情報」であり、しかしあたしは情報ではない。※2

デジタルな画像は劣化しないが、あたしの記憶は劣化する。その劣化をあたしは修辞学で補おうとするのだろうが、ブログに修辞学があるとすれば、劣化しないデジタルな画像と劣化するあたしという関係の縁(もしくは断層)に生まれるテクストの快楽でしかないだろう。

テクスト(言語)を画像が説明しているのではなく、言語(テクスト)が画像を説明しているとしても、そのテクストは真実を語るわけもなく、あたしのエゴイスティックな解釈、言語活動でしかない。とすれば、画像はそのエゴイストの語る言葉の共示性を高めようとしている――とすれば、画像は言語を説明している。

それが読者にもそうであるかは知らない。けれども、でなければあたしはブログを書く楽しみを失うだろ。

あたしは劣化しないデジタルな画像を劣化させたい。最初から嘘にしてしまいたい。それを担ってきたのはあたしの言語活動(つまりテクスト)なのだが、それを言語活動以前のものとしてやってしまいたいのだ。ちゃんと写らないトイデジで撮ったり、Picnikでの加工はそれらの一寸したこころみ。けれどほんとうはテクストでそれをやりたいのだ。いつでも。というところで午前6時起床。浅草は晴れ。

※注記

  1. HDR風な野菜炒めで飲む。(餃子の末っ子:千束通り商店街:浅草5丁目) の注記1参照
  2. 「でも人間は情報じゃない。」(養老孟司) 参照