大小便厳禁
「大小便厳禁」 with  VQ1015 Entry


丸重に二重リングを買いに出かけ(なにに使うんだ)、いつもの路地を歩けばパブリックな庭と化した露地に咲く花はビビット。VQ1015 Entryのシャッターを切れば「大小便厳禁」のピラ。禁止ではなく厳禁。たぶんずっと前からあったはずなのに気づかないでいた「厳禁」。

駐車場 路地
近所の路地(浅草4丁目) VQ1015 Entry

ここは駐車場になっている一角で、いってみれば余所者に街が口を開けている場所である。『身体の中で最もエロチックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。』といったのはバルトだけれども※1、街の中で最もエロチックなのも口を開けている所には違いなく、しかしそれは「路地」でありもしくは「駅」であって駐車場ではない。

駐車場は街にできた余所の土地、もしくは小さなカプセルの延長としての自我の蜂の巣。それともヤドカリの砂浜。※2 けっして町内会のものではなく。

しかしこの「厳禁」は余所の人に対して書かれたものではないだろう。

では誰に向かって「大小便厳禁」なのかといえば、それは町内の人間に対してであることはあきらかで、「すいません」とあたしは頭を下げるのである(流石に大きいのはないけれど)。※3 

路地に咲く花 露地に咲く花
路地に咲く花 VQ1015 Entry

※注記

  1. ロラン・バルト:『テクストの快楽>』:p18
  2. 『装具に取り巻かれた節足動物のように、あたかも装具的な外骨格に筋肉が覆われているかのように、車に覆われた消費者はまるで貝を被った滑稽なヤドカリのようなものです。』 (ベルナール・スティグレール:『象徴の貧困』:p152
  3. 『バッキー氏が言い、彼自身がそうであるように、街の先輩はいつでも正しいわけではない。酔っぱらったらカウンターで寝て店に迷惑をかけることもあるし、その場になじめずに大声で説教を垂れて一緒にいると恥ずかしい時もある。でも、その「恥ずかしいを教えてくれた」と思う先輩がいる限り、街は先輩で溢れかえる。先輩が多い街には後輩も多い。そういう街は、立ち小便が多くても、実は健全だ。』 from 江弘毅:「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ (講談社現代新書):p212