パンのオオムラの
ハムカツパン
作品(ハムカツパン)130円
SO905iCS +Orton風 by Picnik
紅しょうが天ではいくら小食なあたしでも空腹が満たされることもなく、「パンのオオムラ」でハムカツパンを買う。それはウルトラなオールド・スタイルであって、ソースを纏った半切りにされたハムカツがコッペパンに挟んであるだけという素っ気なさ。
しかしこれがオオムラの「作品」※1に違いなく。
こういうものを作り続けるというのは覚悟のいることに違いなく、つまり新しいタイプのパンもつくれないことはないけれど、ハムカツパンやコロッケパンを作り続けると決めたのであるオオムラは、ある日、たぶん。
しかし作り続けると決めたからといって「作品」が売れるとは限らず、だから売れるように努力するのである(たぶん)。その努力がなんなのかはよく知らないが、パンのオオムラの店先に立てば、ガラスケースに並んだすべての「作品」は文句なくうまそうなのである。
それであたしのあとのお客は外人さんだったのだけれども、ちゃんと英語で応対しているというすばらしさ。スリーハンドレッド・フォティ・イェンである。かなわないなと思った。
パンのオオムラ
LUMIX DMC-FZ8 +Orton風 by Picnik
ジョイフル三ノ輪というアジール(序)
そしてもうひとつ思うのは、紅しょうが天にしろハムカツパンにしろ、ジョイフル三ノ輪という商店街のアジール性があってこその「作品」だろうということで、つまり個々の「作品」はジョイフル三ノ輪という商店街の共同体性を基体にして生まれている。
これは客商売の究極のかたちだということだが※2、その形成が自然体なのだ、この商店街は。ジョイフル三ノ輪にはさらに通ってみたいとあたしが思うのはその構造をさらに知りたいからだ等とのたまいながら、午前6時起床。浅草は晴れ。
オオムラパン (パン / 三ノ輪橋、荒川一中前、三ノ輪) |
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※注記
- 最近、「作品」としてまとめることの大切さのようなことを(今更ながらに)考えるようになり、つまりこのブログのように、思考のプロセスを書き連ねる、メモ書きの集合体のようなものではなく、例えば一冊の本にすること。例えば文字ではなく、絵とか、写真とか、インタラクションのようなものにすること。思考・創造性をひとつの「作品」とすること。そんなことを漠然と考えていた。from 『とろける鉄工所』 野村宗広を読む。
- 「アジールとしての街場は、その空間に迷い込んだ(逃げ込んだ)人々の、自由の尊厳、差異の尊重、個性の重視、共同体との断絶を保証するために、むしろ共同体性を強めます。保証するために結界を張らないといけない。結界を張ることによって、人々の〈欲望〉の対象である、自由の尊厳、差異の尊重、個性の重視、共同体との断絶を保証する。これは客商売の究極のかたちだとあたしは思っています。」 『ミシュランさん、一見さんお断りどす』を読みました。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡 参照