『明るい部屋』

明るい部屋―写真についての覚書

ロラン・バルト(著)
花輪 光(訳)
1997年6月5日
みすず書房
2800円+税


『明るい部屋』

あたしはロラン・バルト好きであって、その中でも『テクストの快楽』と『彼自身によるロラン・バルト』と本書(『明るい部屋』)があたしの読む薬としてのロラン・バルト3部作であり、それはテクストを考え抜いた人のテクスト、論理に走らない哲学者のテクスト、どうやったらこんなテクストになるのだろうというあたしの永遠の〈欲望〉。

鏡像段階「お前が、これだよ」前者のふたつはこのブログでもちょくちょく引用をしているけれど、しかし本書からの引用が滅多にない(ぜんぜん無いのではなく、目立たないようにそっと引用している)のは、そもそも写真についての言及をあたしが怠ってきたからというのが一番の理由。

そしてもうひとつあげるなら『明るい部屋』にあるバルトが隠すことのなかった母への愛への照れだろう。それは読んでいるには感動的でさえあるのだけれども、引用するような場面があたしにはない。

ただ母の写真(「温室の写真」)からバルトは写真のノエマを探り当てているのだからそれは重要なことなんだけれど、あたしにはそのバルトの純真無垢さを少しはずかしく感じてしまう(というかバルトのように象徴界が機能しない)しょうがなさがある。

なので(この部分は)いつも一枚の写真を引用し誤魔化してしまう(それも『明るい部屋』からではなく『彼自身によるロラン・バルト』からの)。

(右写真) 鏡像段階。「お前が、これだよ」
シェルブールで、一九一六年。
ロラン・バルト:『彼自身による ロラン・バルト』:p25

「写真についての覚書」をなぞろうと思う

その滅多にない本書かからの引用のひとつがこれ。

それゆえ、「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。 (ロラン・バルト:『明るい部屋―写真についての覚書』:p94)

最近のあたしの興味は画像(イメージ)にあって、それもデジタルデータとしての、ブログに使われている写真だ。アナログであろうがデジタルであろうが、「写真」のノエマは、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」であるだろう。バルトが至った結論を否定することは不可能にさえ思える。

最近あたしが(このブログで)遊びながらやっていることは、バルトのやった手法をなぞりながら、デジタルデータとしての、ブログに使われている写真を考えてみるということなのだが、なのであたしは『明るい部屋』を前面に引っ張り出してきた。

しかしそれは写真のノエマを考えることではなく、写真(イメージ)でコミュニケーションしようとする人たちへの興味であり、いつもの中沢新一さんの言葉に収斂されてしまうものだ。

ネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなっているに過ぎない。それはとりたててすばらしいことではないが、かといって陳腐なことでもない。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p365) ※1

つまり機械的な創造性の時代のコミュニケーション言語としての、デジタルデータとしての、ブログに使われている写真(イメージ)を考えてみようとしている。

それはたぶんにあたしの性癖からくるもので、あたしは〈他者〉のブログの写真に興味を惹かれることが多く(それでも100枚に1枚ぐらいだけれども)、そこからテクストを読み始めたりする。

さらにいえば自分の撮った写真にはいつまでたっも不満足感のようなものがあり、過去記事の画像さえ平気で加工し(もしくはあたらしい写真に)差し替えてしまう(テクストを書き換えてしまうように)。すればそれはなんなんだと。

ひとつの助走的な遊び

ここに一枚の画像を貼り付けてみる。これは2006年9月に宮崎の東風屋という店で撮影された辛麺で、これにバルト風の解説をつけてみよう(写真下「」書き)。

東風屋の元祖幸麺
「この辛麺は既に食べられており、しかもこれから食べられようとしている。」
東風屋の元祖辛麺 2006年9月

「この辛麺は既に食べられており、しかもこれから食べられようとしている。」これがこの写真のノエマである。けれどあたしはこの1枚の写真からこの辛麺を食べた日のことをいろいろと思い出すことができる。

細い路地を入ったところにある東風屋の場所。飲み屋のおねーちゃんとのしけたアフターばかりの客。誰と一緒だったのか。東風屋の女主人の不機嫌そうな顔。辛麺の辛さ。水を沢山飲んだこと等々。

さらにあたしは、しばらく宮崎にも行ってないなとも思い、宮崎の方々の顔を思い浮かべる。それはあたしがこの写真に対して主体性を失わないことで可能なことだろう(なにしろこの写真の撮影者は私なのである)。

ではこのエントリーを読んでいる貴方にとってこの画像はなんであるのだろうか。もし貴方がなにか気にとめるようなことがあるとすれば、それはこの写真が勝手に伝えていることか。

焦げ茶色のテーブル。スープはニラの入った卵とじであること。歪んだどんぶりであること、そして撮影者であるあたしが酔っぱらっているが故のピントの甘さと www.momoti.com というロゴ。どれもがどうでもいいことであるだろう(あなたにとっては)。

さらにべらぼうなことに、あたしはこのエントリーに貼り付けるために、この古いデジタルデータを加工してしまっている。ホワイトバランスを調整し、コントラストを強調し、どんぶりの中央にピントをあわせ周辺にフォーカスをかけた。

ではそれはなんのために。

あたし自信の記憶の蘇り(補綴)のためにである(たぶん)。 それは、《それは=かつて=あった》ものであること(あたしが2年以上前に食べてしまった)。

※注記

  1. たとえばここでの引用。