訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語 (光文社新書 352)
笹原広之(著) |
午前6時起床。浅草は晴れ。こうしてブログを書いていて思うのは、あたしはなんでこんなに日本語が不自由なんだろう、ということなのだけれど、それは不自由さというようりも、日本語で書くことの優柔不断さへの戸惑いかもしれない。
ネットの世界をみていると、日本語の表記ってなんでもありじゃないのか、と思えてくるのだが、それでも意味は通じたりするのであって、であれば正しい日本語の書き方なんて無いのじゃないかと思えたりする。
笹原さんはそれでいいのだといっている(たぶん)。
「音読み(漢字)が訓読み(かな)に注釈を与える」
この本を読んでいると「音読み(漢字)が訓読み(かな)に注釈を与える」(@ジャック・ラカン)が分かる(たぶん)。そして笹原さんのいいところは「正しい漢字の読み方」なんて言わないことであって、ただ訓読みの可能性を述べている。
たとえば「_皿_皿_皿_」と書いてなんて読むのか?
答えは「回転寿司」らしい。
ということはこの本で知ったのだが、これは出鱈目な漢字の使い方なのかもしれないが、これも「訓よみ」のようなものなのであり、あたし的には「ギャル文字の構造」※1と違いないのであって、ぜんぜん嫌いじゃないどころか、あたしら日本人の(原初抑圧不全による創造性の)当然の帰結だと考えている。
そしてそれは、「解釈は、貸借を満たすために、快速でなければなりません。」(@ジャック・ラカン)であって、漢字(音読み)は形で訓読み(和語)に注釈を与えていることで快速なのであり、快速をもとめて常に変化し続ける強かさをあたしは日本語に感じる。
たとえばあたしは「
しかしこれは昼餉という漢字がランチを注釈していているのであってその逆ではない。あたし的にはランチというルビが目に入ることによってただ闇雲に昼に食った飯であることを強調しようとしている。 「
日本語とバイロジック
ジャック・ラカンが、日本人には精神分析が必要ない、といえたのは、日本語の構造ゆえのことである。われわれはパロールにおいて無意識が露呈している――つまり対象性知性が表出する言語体系をもっていた。
その日本語の構造は、漢字(中華帝国の文化)の「拒絶的受容」に始まり、外来語のマーキングとして現在に至る。「われわれ」日本人は、日本語で考え、それをまとめ、伝えることを破棄しない限り、最初からバイロジック(ぽい)のである。
つまりトポロジー的にはこうなる。
※注記
- ギャル文字の構造 参照
- タグは<ruby><rb>○○</rb><rp>(</rp><rt>□□</rt><rp>)</rp></ruby>であるが、これはIE用のタグであって、IE以外のブラウザだとルビ表記にならない(たぶん)。
- 解釈は、貸借を満たすために、快速でなければなりません。」(@ジャック・ラカン)を引用するのは、解釈はトポロジックなものであり、色と形で理解できるとき、それはうだうだとテクストの意味を追いかけていくよりもずっと速い、という程度の理解であって、つまり〈他者〉のテクストを読んでいても、それがトポロジックに、色と形として理解されるとき、解釈は快速だといっている。 なんちゃってデジタルクロスプロセスで遊ぶ。(オンライン画像編集サイト Picnik) 参照