mixi実際はほんの数年前なのに、個人的にはかなり昔のような気がしているが、mixiが人気サイトとしてもてはやされるようになったとき、自分のホームページ上のエッセイに「せっかくオープンな情報公開/交換の場であるはずのインターネットの上に閉じた村を作るなんて」とmixiのワルクチを書いたことがある。

今、ユーザ数が「千万」のオーダーに達したmixiは、玉石混淆のほとんど制御不能なサイトになり、そこを無理矢理制御しようとして、人畜無害なコミュニティまで削除してしまった、などの問題が生じていることは、みなさまご承知のとおりだ。言い換えると、「村」どころか、諸悪すべてひっくるめた「都市」の様相を呈しているようだが、しかしそれでも、古典的ソーシャルネットワークシステム(SNS)の文化的資質として、情報のフリーでオープンな公開/ 交換/共有の場にはなっていない。 from  [jp]情報の公開と非公開のジレンマ…SNSは過渡期的な文化にすぎないか?|TechCrunch JAPAN


このTechCrunchの記事は繰り返しTwitterで再利用されているものだから、あたしはついリンクをクリックしてしまうのであって、何度も見てしまている。

この記事に感心を示されているのは、IT業界の方、それもイントラネットに関わっている(もしくは関わった)方だというのが特徴的なのだが――というか、あたしがTwitterでフォーしている方々にその筋の方が多いということだろう――それはイントラネットが、そもそも「情報の公開と非公開のジレンマ」どころではなく、最初から「情報の非公開への割り切り」でできていることと関係があるのだと思う。

イントラネット

イントラネットの特徴はその情報の非公開性にあり、それをあたしは「円環モデル」とか「お盆のような世界」といってきたし、その限界とは偶有性が働かないこと(〈他者〉とつながらないこと)であるのは当然で、しかしそれが悪いことではないというのは(あたしの)IT化のテーゼが「共同体性を保ちながら如何に外とつながるのか」だからだ。※1

インターネットは最初から「オープンな情報公開/交換の場」であるが故に、そこに希薄な共同体性しかもたない人達がかかわれば、如何にインターネット上に共同体性をつくるのかという命題が浮かび上がる。

それは、あたしのような年寄りではなく、もっと若くてアメリカ人のような人たちにとって(つまり多くの日本人だが)、それは過剰流動性※2 の時代に、〈欲望〉以前の本能――欲求(動物的欲求)※3 が機能しているからだ(たぶん)。

つまり(人間の行う)IT化は、「オープン」に向かうのではなく、むしろ「閉じ」に向かうのだと(あたしは)考えていて、だから問題はその「閉じ加減」なのであるけれど、あたしらは薄くて広い紐帯(ウィークタイズ)というものをまだよく知らない。

私のIT化のトポロジー
IT化のためのトポロジー

会社とか協会といったフォーマルな共同体性を維持するためにはイントラネットはよくできたシステムであり、このニーズはそこそこ手堅い。

それは会社資本主義(組織的資本主義)である今という時代に(フォーマルな)共同体性の護持というニーズは絶対になくならないからであって、じゃなかったらサイボウズはいの一番に倒産している。

ただ組織的に紐帯の弱い会社(非正規雇用社員がやたらに多くてメンバーの入れ替えが激しいとか)が増えれば(「Web化する現実」)、イントラネットもまた壁にぶつかるはずで、イントラネットの限界というのは、そんな社会的、経済的状況との狭間に表出すると(あたしは)考えている。

mixi―SNS

あたしにとっての mixi は2006年で終わっている。今では mixi でしか連絡の取れない方々とのイントラネット化し、日記はこのブログのFeedリーダー化している。以下ちょと長い引用。

円環モデル

mixiでは、今までいろいろと試させていただいていて(今のも実験のひとつだといえないこともないが、私なりの理解としては)、mixiは円環モデル(ひねりのない中景モデル)にしかなれないということだ(それはそれで悪いものではないことは何度も繰り返し述べてきた)。

ハブ能力

そしてその円環が「広くて薄い紐帯」を作り出す可能性(つまりひねりの可能性)は、結局は個人のハブ能力に依存していることも、はっきりと見えてきたと思う(これについては別途まとめをしたいと考えている)。

偶有性

いまの私が考えているIT化は、偶有性(偶然につながることの正当性)の可能性の探索のようなもので、それは今のところブログの方がより見えやすい(つまりログ解析がやりやすい)。

Data as the intel inside

偶有性の可能性は、具体的には、Web2.0ミームの決まり文句(buzwords)でいえば、Data as the intel inside に要約されるものだろう。つまりmixi日記はデータベース的に機能しないことが、今の私には魅力のないものになっている理由だ。

それは簡単にいってしまえば、mixi日記は検索エンジンの検索対象ではないということであって、もし今後mixi日記が検索エンジンの検索対象になるなら、まったく新しい可能性を私はmixiに感じることができるだろう。※4

mixi は共同体欲求を前提としている。けれどそれは基本的にはインフォーマルなものであって(それは悪いことでないだろうが)そのことでどうしても長続きしない。

町内会主義者であるあたしから見れば、mixi は「共同体」の機能代替になり過ぎた(機能代替になるように見え過ぎた)のである。

けれどその期待とは裏腹に、 mixi 共同体(コミュニティ)は、依って立つ地面(バロックの館※5 の1階部分)になれないことが露呈してしまっている。つまりその多くは、あなたのアイデンティティを担保しないことで共同体としては不完全なのである。

多くのミクシィ批判がその鬱陶しさを指摘するけれど、あたし的には鬱陶しさが足りない。それを避けようとすれば、リアルな社会の共同体性を mixi に持ち込むしかなく、すればmiziは無償のイントラネット化する。ただそこでは(会社や協会のように)何らかの共通目標が機能しなければ、メンバーによる積極的な情報発信は行われない。

Twitter

Twitterを過度にもてはやす方々もいるけれど、それはマーケティング、宣伝目的がらみであって、それ以外の人達にとってのTwitter も、その要は「閉じ加減」であるだろう(今のところ)。

その意味ではTwitter のゆるい紐帯性は、偶有性をそこそこ機能させるので(検索エンジンの検索対象である)、そのことで、商売的に鼻の利く人達にとっては、いい商売道具に思えるのだろうなとは思う。

けれど(今あたしがTwitterFoxを使って見ている)タイムライン表示では、フォローしている人(緩い紐帯)が増えれば増えるほど、あたしの情報処理能力(デジタルなコミュニケーション能力)は限界値を迎えるのであて、(あたしの関与先以外の)企業(組織)からの情報はフォローしないことにし、フォローされていても興味のない情報発信の多い方もフォローから外したりしている。

それでも日々拡大中で情報量は過多気味であるが、そのつぶやきを見ていると(読んでいるのではない)、もしかすると、Twitterは「読まれること」ではなく、「呟くこと」自体に価値を見いだした人達のモノかもしれず、そうなると共同体性なんかどうでもよくなるのもたしかだ。つまり極端なはなしフォローされているが「0」でもいい人達がいるのではないかと。

けれどTwitterの可能性というのは、もっと機械的な何かであるように感じていて、つまりはAPI の元も子もない解放具合なのだが、それが社会的な動きを表現する何かを生み出す可能性もあり得るだろうなと思う(もちろんTwitter以外の、けれどもTwitter フォローでしかないものからの)。

僕は、ひとことで言うと、特定の技術が特定の思想を体現することがあると考えています。技術は価値観に対して中立だと考える人もいると思いますが、僕はそう考えない。とくに、情報技術は、特定の社会観や価値観――それを「カリフォルニア・イデオロギー」と呼ぶにしろ「未来学」と呼ぶにしろ「ハッカー倫理」と呼ぶにしろ――のとても強い影響を帯びている。しかも情報技術がおもしろいところは、いままで思考実験だったものをすごく世俗的なかたちで露呈させてくれるところです。(東浩紀:『波状言論S改』p335-336)

それが過剰流動性への抵抗手段以外の何ものかであるならば、あたしの命題――「(人間の行う)IT化はオープンに向かうのではなく閉じに向かい問題はその閉じ加減ある。」――は機能しない。

しかしそんな人間を想定することがあたしには難しいのであって、過剰流動性に人間はどこまで耐えられるのだろうか、という(あたしの)命題が無くならないように思うのは、Twitter の生い立ちもまた、過剰流動性への抵抗のひとつの表現系でしかないと思うからだし、これもmixi のような情報技術による社会実験であると(あたしは)理解しているからだ。

※注記

  1. たとえば 事業者団体IT化のためのテキスト―「財団法人ニューメディア開発協会研究成果レポート(社会と公的分野における情報化)」に書いたもの。  参照
  2. (1)収益を求める自由競争の優勝劣敗を放置するほど、(2)社会は不安ベースないし不信ベースで回るようになると同時に、(3)空洞化した社会は自信を失って何かというと国家を頼るようになります。
    「(1)過剰流動性→(2)不信ベース→(3)国家頼み(→(1)過剰流動性…)」という循環を回すのか、それとも「(1)流動性制約→(2)信頼ベース→(3)社会の自律(→(1)流動性制約…)」という循環を回すのか。(宮台真司:http://www.miyadai.com/index.php?itemid=164
    ここでは「生活社会。」 より引用した
  3. 法大EC2005で使った定義
    欲求 動物的なもの。自然と調和する。特定の対象を持ちそれとの関係で満たされる単純な渇望。たとえば、空腹を覚える→食物を食べる→満足、欠乏-満足の回路。
    欲望 人間的なもの。自然と調和しない。望む対象が与えられ欠乏が満たされても消えることがない。たとえば 男性の女性に対する性的な欲望→他者の欲望を欲望する→欲望は尽きない。
    from  ボロメオの結び目(ジャック・ラカン)
  4. mixiとblog(ミクシーとブログ)。 参照
  5. サイボウズOffice8へのバージョンアップ-バロックの館の1階部分としてのイントラネット。  参照