桃知商店よりのお知らせ

『京都 店 特撰―たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯っている。』 バッキー井上を読む。

京都 店 特撰―たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯っている。

京都 店 特撰―たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯っている。

著 者 バッキー井上
解 説 内田 樹
発行人 中島 淳
発行所 株式会社 140B

2009年8月24日
838円+税


140Bからバッキー井上さんの『京都 店 特撰―たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯っている。』 が届けば、こうして、いの一番にWebに報告する。これは他人事でないという心象、共感とコミットメント、株式会社140Bの第一号出版物というめでたさか。

さんざん読み倒したはずのバッキーさんのテクストも、縦書きの一冊の本となれば、文学(というか精神分析)の深淵に触れるかのように、酸っぱい古漬け感を醸しだし※1、それがあらわにする命題は「〈女性〉はいない」(@ジャック・ラカン)である。※2

街は店に宿り、店も街も〈女性〉である。

俺は街こそが世界だった。今もそうだ。街の店がなくなったら俺には世界がない。※3

「街は店に宿る」という「街的」の定理に従えば、「われわれ」=「」という「街的」が機能するとき、「」は「店」に宿る。

それは「つまりそこへ行き、そこから帰ってくる一つの中心、そこを夢み、そこへおもむきそこから取ってかえす、一口にそこで己を発見する一つの完全な場所」※4 であり、これと同じ構造をもつものを〈女性〉(子宮的構造)というのだ。

つまり街は〈女性〉であり、店も〈女性〉なのである。けれど「〈女性〉はいない」というラカンの命題を受け入れるなら、次の命題もまた機能するだろう。

スラヴォイ・ジジェクが言うように、男性の定義は次のようなものになる――男性とは「自分が存在すると信じている〈女性〉である」と。※2

だから「店は存在しない」とも、「街は存在しない」ということもできる。

この本やあるいは別のバッキーさんの書きものを読んで、バッキーさんが夜ごとにゴキゲンな時間を過ごしている(はずの)木屋町や河原町のバーや割烹を訪れた人がいるかもしれない。たしかに「街の情報」という書きものの一つ使命はそのようにして客を誘導することなのだから、読者たちがそのようにふるまうことは別に間違っていない。でも、そういう人たちは、どうじたばたしても、バッキーさんがそこで日々享受しているような種類の快楽を追体験することはできないということを思い知ったはずである。バッキーさんが絶賛するお店を訪れて、バッキーさんが絶賛するメニューを頼んで、「え、これが?」と失望した人だってきっといたと思う。※5 

バッキーさんにとっての店や街は、バッキーさんが存在すると信じている〈女性〉なのである。

ボロメオの結び目そして男性が女性を「所有物」だと見なしてはいないように、(バッキーさんによって書かれた)「店」がバッキーさんの所有物であるわけもなく、男性とは「自分が存在すると信じている〈女性〉である」ように、店とはバッキー井上の存在、つまりバッキー井上その人として立ちあらわれる。

しかしそれは(バッキーさんの)履歴書やプロフィールであるわけもなく、ただ、幸福な贈与の関係、つまり店とバッキーさんの間に生まれる「女の悦楽」(純生産)なのである。

店が興奮している

その純生産がバッキーさんのテクストであり、バッキーさんのテクストが表徴するのは「女の悦楽」と、バッキーさんの「象徴界」(街)なのだと。

俺は基本的に子供の頃から街の店が好きだった。というか街の店こそが外の世界、自分がどんな奴でどこにいてということがわかる唯一の世界だった。※6

だからこの本にある店はそれぞれに興奮している。あなたがこの本をどう読もうが――シャイな中年男の私小説か、もしくは告白文か、ありていの観光案内か――、己の身を隠すように添えられたフレーズも、それゆえに赤裸々に迫り来て、どの店も、妙に艶めかしいく、フェロモンだしまくりで貴方を誘惑することになるだろう。

自分の街と店との間に 

しかし呉々もそれはバッキーさんと店の間に生まれる幸せな興奮状態であることは覚えておいてほしい(先の内田先生の引用のようにならないためにも)。 

ただその幸福感をほとんどオートマティスム(自動筆記)か、PCM(偏執症的批判方法(@サルバドール・ダリ)か、呪術のように書いてしまえることで、バッキー井上という人は唯一無二の天才酒場ライターなのである。そしてそのテクストは〈他者〉であるあたしにさえ悦楽なのである(ロラン・バルトのいう意味で)。

もしあなたもバッキーさんの享楽を味わいたければ、大切なことは一つだけである。それは、自分の街の店との間に、幸福な興奮状態をつくるというだけのことだ。 

2009年9月12日(土) 

2009年9月12日は浅草にこの天才酒場ライターをお招きし、『京都 店 特撰―たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯っている。』発刊記念イベントを行うことになっている(たぶん、あたしとバッキーさんとビックゲストさんの鼎談)。なので皆さん、くれぐれも予定だけは空けといてくださいな、と宣伝なのである。

ということで午前7時起床。浅草はくもり。 

※注記

  1. 「Webで展開されている『京都店特撰』は横書きで、それでもあたしはかなり喜んで読んでいたのだが、これが縦書きになった途端、井上さんのテクストの、個人的な、体質的な、つまり(バッキー井上の)言葉ラングと文体※3, が、つまり特有言語イディオムがくっきりと浮かび上がるのである。」 Re:浅草はバッキーとあなたを待つ。 参照
  2. 〈女性〉は存在しない。(ジャック・ラカン) 参照
  3. バッキー井上:『京都 店 特撰』:p7
  4. ロラン・バルト:『表徴の帝国』:p52
  5. 内田樹さんによる:『京都 店 特撰』の解説より:p123-124
  6. バッキー井上:『京都 店 特撰』:p1

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Comment [1]

No.1

う~ん、どうも難解ですなあ。(笑)
ありがたく読ませていただいておりますがときどきすごく難解になるときがある。
中卒のわたしには総じて難解だけど。(笑)
観念の世界を膨らませるやりかたで世界を見るというやり方は、曼荼羅世界が広がるようでいてじつは御釈迦さんの手のひらで踊っているだけのことじゃないでしょうか?
生活的な視点、社会的な視線からみればホームレスが玄関先に寝ていれば水をかけて追い出す「街の店」もあるだろうし、いまもつづく派遣斬りの青年はそんな街の店の敷居をまたぐこともできないし、裏の調理場では落した玉子焼きでもさっと水で洗ってもとに戻していることもある。etc.
そういった現実を捨象して、お釈迦さん(観念)の手のひらの内側で遊んでいても、難解だけど庶民の生活意識からは外れたことをいっているお気楽な人たちが存在するだけということになりませんかね。
これが街場だってのなら、そんなものは犬に食われてしまえって感じですな。

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