関山 中尊寺の子宮的構造
人類の抱いた最初の哲学的謎は「子供はどこからやってくるのか」という質問なのであった。すると女性の股間の洞窟は「無」への入り口なのであるから、それを人目にさらして、子供はここからやってきましたと言うことは、「無」を裏切ってしまうことになる。(中沢新一:『アースダイバー
』:p195-196) 「(浅草寺の)子宮的構造。」より
午前4時20分起床。浅草はくもり。山鹿市管工事業共同組合の皆さんと平泉町の中尊寺を訪れたのだ。あたしは寺社仏閣を訪れると必ずひとつのことを確認したくなる。それは女性のメタファー、つまり子宮的構造をだ。
中尊寺は浅草の浅草寺ほどその構造がはっきりと表れていない、先ずは参道への入り口であるが、この入り口には女性のメタファーらしきものなどどこにも無いのだ。つまり最初から子宮的構造を否定しているように見える。
しかし、一端参道に入ればまさにそこは産道だった。ただし浅草寺の参道(仲見世)のギュウギュウ詰め感は何処にもない。まさに山道であるが、ここを歩いて昇っていると息が切れてくる。それに何処に着くのだろう、とまさに精子になった気分なのである。
そしてようやく本堂につくのだが、中尊寺では本堂そのものが目的地ではないのだ。目的地は金色堂なのである。しかしこの本堂と金色堂は何か別物だ、という気がする。
本堂は安心感に満ちている。それはちゃんとご本尊はある、という安心感なのだが、その安心感が子宮的構造を不定している。ここは子宮的構造ではないのではないか、とさえ思う。
しかし、金色堂に着くと子宮的構造そのものになる。この金色堂に入るには参拝料を取られる。まあ、浅草寺の仲見世で散財させられるよりはずっとましだ(と思うのだ)が、この辺りの仕組みはまさにストリップと同じなのだ。
見えるものは見えるが、「でも肝心なところは見せないわよ」、と云っている。藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と、泰衡の首が納められている、というがそれは見えないのだ。あーさすがは中尊寺だな、と思う。最後の最後に来て中尊寺の子宮的構造を露わにしているのだ。