新・都市論TOKYO

『新・都市論TOKYO』(集英社新書 426B)

隈研吾/清野由美(著)
2008年1月22日
集英社
720円+税

浅草(それも裏浅草)の路地者であるあたしにとって、大規模再開発された東京というのは彼岸である。汐留も、丸の内も、六本木ヒルズも、東京ミッドタウンも、代官山も、あたしの生活にはほとんど関係はなく、たまたま仕事関係の会社がそこにあれば出向いたりもするが、なにかを求めて好き好んで行くような場所でもないわけで、あたしの生活との関係は薄い。


都市は、経済合理性、土地の収益性を最優先にするなら、建物は高層化に向かう。あたしはそういう景観を毛嫌いしてはいるけれど、その最大の理由は、「家賃が高くてそんなところに住めるわけねーだろー」というものだ。

だから、「家賃が安ければ住むのか」と言われれば、(たぶん)住んでみるかもしれない。ただし住み続けるかどうかは、その土地の「街的」にかかっているわけで、それは住んで見る前にわかること。なのでたぶん住まないだろう。つまり(あたしの生活に支障がなければ)何でも好きにやってチョーダイなのである。

隈研吾さんも、清野由美さんも、大規模再開発された東京というものが、そんなに好きではないようで、淡々且つ心地好く進む対談形式のテクストは、批判性を孕みながら、計算されたように町田に向かう。そうこの本のハイライトは「町田編」にある。

町田もまた、あたしの生活には関係のない「郊外」だけど、隈研吾さんは、町田には、リアリティとヴァーチャリティとの接合がある、と言う。隈さんによればヴァーチャルな都市とはITの産物ではなく、20世紀に登場した「郊外」という形式がその先駆であって、「郊外」を次のように定義している。

様々な歴史、時間が染み付いているはずの「土地」の上に、その場所とは無関係な「夢」を強引に構築する方法で作られた街が「郊外」と呼ばれたのである。(p168-169)

しかし(「郊外」であるはずの)「町田」には、「郊外」の枠では捉えきれないモノがあるようで、それは大型商業施設の立ち並ぶ駅前、チェーン店と老舗商店が同居するの商店街、川沿いに建ち並ぶラブホテル、結婚式場、新築のマンション群という、同心円上に広がる混在性だ。

風俗系と思われる女性がたむろする脇を、普通に住民が歩いていたり、マンションの横はその昔は青線だったりと、町田もどこかで「街的」(裏浅草的)なのだが、隈さんは、「町田」に表出する「あか抜けしない泥臭さのようなもの――それをリアリティと呼んでもいいであろう――」に魅せられてしまったようで、

いいじゃないですか、町田。そもそも都市性というのは混在性のことを指すわけなんだから、それがある町田は正しく都市といっていい。(p196)

という結論に達していたりする。

建築家にこんなナイーブな発言をされると、こっちの方が恥ずかしくなるし、あたしからすれば、「ざま~みろ」と言えないこともないけれど、それは生活者の棲む街なら発するはずの臭いでしかなく、そんなものに今更開眼してどうすんのよ、とも思う。

しかし、文明人が非文明的なものをみつけて喜んでいるように、「郊外」である「町田」に「街的」なものをみつけ、それを素直に喜んでいる隈研吾というのも(皮肉的に)面白いな、とも思うわけで、隈研吾にそう言わせた清野由美さんに拍手である。

その「町田」の混在性、つまり「リアリティとヴァーチャリティとの接合」を作りだしたのは、じつは鉄道で、それもJR(リアリティ)と私鉄(夢=ヴァーチャリティ)の結合故だという指摘はそのとおりだと思う(それはつまり自動車がないからで、自動車中心なら16号線のようにファスト風土化する=地方)。

それは、後で紹介予定の、増田悦佐さんの『日本文明・世界最強の秘密』にもつながるところがあって興味深く読んだ。たぶん大都市がなぜ大都市であって、なぜ地方都市よりバイタリティがあって、なぜ生産性が高いのか、というのは、地図と暦を無視した私鉄沿線がつくった「夢」=「世界」(パトリでいう)が機能したからだろう(その接続には路地を経由しない)。

大都市圏で働くことで、私鉄沿線の「郊外」にある「夢」を手に入れる。その「夢」が、ほかならぬ「私」がつながる(唯一の)「世界」だもの、江弘樹がそんな「家族」を毛嫌いするのも無理はない。

しかしこのロジックが機能する限り、大都市は大都市であり、私鉄は「夢」を売り、人々を寄せ付け、生産性を高める続けることができる。それは基本的には「民間」の力で、である(逆説的には、私鉄的「夢」のない地方は、旧日本国有鉄道的に、配分を続けることで、また別の「夢」を機能させるしかないわけだ)。

つまり、「夢」を鉄道という「線」で束ね、それをつなぐ技を発見したのが、20世紀の大都市の生産性を担保したシステムで、「夢」を売るのはもっぱら私鉄の仕事であったのだし、私鉄による郊外開発は、20世紀における都市開発の重要な手法だったといえる。たぶん今もそれは機能しているのだろう、と思う(あたしはそういう「夢」をおっかけてないのでわからないのだわ)。

私鉄の小田急線がJRの横浜線と交わる「町田」は、私鉄(夢)とJR(リアリティ)の交差、もしくは弁証法であることで、私鉄の描く「夢物語」のすきまから染み出た、生々しいリアリティが街全体を覆っているのは、たしかだろう(「夢」はそのうち覚めるし、「夢」から生まれた次世代に、親の「夢」は「夢」でもなんでもない)。

この本は、基本的には「街的」に好意的である。が、なんか腑に落ちないところもある。それが何なんだかよく分からないのだが、生活者への視点の欠如かね、とも思う。