バッキー氏が言い、彼自身がそうであるように、街の先輩はいつでも正しいわけではない。酔っぱらったらカウンターで寝て店に迷惑をかけることもあるし、その場になじめずに大声で説教を垂れて一緒にいると恥ずかしい時もある。でも、その「恥ずかしいを教えてくれた」と思う先輩がいる限り、街は先輩で溢れかえる。先輩が多い街には後輩も多い。そういう街は、立ち小便が多くても、実は健全だ。 from 江弘毅:「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ (講談社現代新書):p212
フレーズ 一覧
恐慌型経済とは何か?
恐慌型経済の復活とは、何を意味するのか? 端的に言えば、ここ数十年で初めて、経済の需要サイドにおける欠陥――つまり利用可能な生産能力に見合うほどの十分な個人消費がないこと――が、世界経済の繁栄の明らかな足枷となっているということである。
われわれ――エコノミストだけでなく、政府当局者や教養のある一般の人々――は、このような事態を予想もしていなかった。「サプライサイド・エコノミックス」と呼ばれる、経済の供給サイドを重視する経済学は従来からあった。だが、この馬鹿げた考え方はあきらかに破綻した教義であり、裕福な人々や偏見を抱くマスコミ以外には、ほとんど影響力のないものだった。とはいえ、ここ十数年、経済学の考え方は需要サイドよりも供給サイドへと徐々にその重心を移してきた。
図:『古代から来た未来人折口信夫』 p125
ふりかえって
…大衆として行動するときの仲間がなつかしいだけでなく、その中から、時代を経てするりとぬけて、個人として立つ人がなつかしい。
マスではなく、エンド・ピースとして。
八十三年生きた。自分を、時代から抜け落ちたエンド・ピースとして見るとき、私の生きている同時代に、ひとりの個人としても面影を、私の中に今も残している人びとのことを書きたかった。
増補 浮上せよと活字は言う |
そうそう。「どげかせんといかん」っていうのも、なんとかして対策を講じなければって、真面目に考えているわけじゃない。「どうにかせにゃいかん」って言っていればなんとかなると思っているんですよ。(五木寛之)
蕎麦屋はおかみさんで持っているようなものです。祖母など「蕎麦屋じゃ男の子はいらない。あたしなんか、おじいさんが三年うちに帰ってこなくとも、店をビクともさせなかった」と申しておりました。確かに倅より養子の方が頼りになります。倅の言い分は、初代はその商売に適正があったからはじめたんで、倅には選択権がない、ということです。ひとりでに遊び人ができます。養子は好きでその商売に入っていますから問題はありません。
雨が本降りになった頃、反対方向から神輿が現れた。「ちょーさや! ちょーさや!」こちらも白装束の男たちがかついている。「ちょーさや」という掛け声は初めて聞くものだ。