12月9日に大阪で講演いただく江さんからのコメントは「ビールな実存」だ。

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これは後程正式にリリースするけれども、12月9日に大阪で行う「江弘毅講演会」+桃組忘年会は、会場とタイムスケジュールは決まっていて、以下のような段取りになっている。

<セミナーの部>
日 時:12月9日(土)13:00 開演 17:00 修了予定
会 場:愛日会館5階 やすらぎの間
    大阪市中央区本町4-7-11  http://aijitsu.jp/
出演者:江弘毅・桃知利男・笑福亭遊喬
内 容:未定
会 費:3,500円 (学割3,000円)

<忘年会の部>
日 時:12月9日(土)17:45 → 20:00
場 所:美々卯 本町店
    大阪市中央区本町4-6-4  http://r.gnavi.co.jp/k435300/
会 費:7,000円 (学割6,000円)

<セミナー+忘年会>
会 費:10,000円 (学割8,000円)

本当は学生さんはただでもかまわないのだけれども、一応学割って書いてみた。

バロックの館

そこでご講演いただく江さんが、私の「桃語:バロックの館(モナド)」にコメントをつけてくださった。それは皆さんにも是非読んでいただきたいと思うのだ。

バロックの館ライプニッツ的個としてのモナドについては、私はちゃんとした勉強しているわけもなく、中沢新一(フィロソフィア・ヤポニカ)を経して田邉元の「種の論理」の絡みの中で考えてきた。

それはつまり窓のない個人がどうしたら世界とのつながりをもてるのか、と云う問題だと理解している。

そのもっとも普遍的な方法は共同体(種・中景)を足場とするものであって、つまりバロックの館の2階部分が窓のない個だとすれば、1階部分は共同体・種(つまり岸和田や浅草)であって、個は共同体を基底として世界とつながると云うものだ。それを種的基底と云うのだが、そのときわれわれは一体化している(様に見える―じつは違うのだが)。

それはまるで臍の緒の切れていない母子のようなものであって、それをして近代化先進国(つまり米国と英国だ)は、日本を近代化後進国としたわけだ。

共同体性の否定

しかし今と云う時代の問題はなにかと云えば、共体性を否定した世界との接続方法を脅迫されていると云うことであって、それはつまり、1階部分の窓をすべて閉じてしまい、窓のない2階部分に窓を無理やりあけているようなものだ。

――その多くは経済合理性・経済成長ゲームからの要求だろうが――、今の日本は丁度その過渡期(工事中=構造改革)にあるのだろうと思う。

そのおかげで中景・共同体(例えば地方自治体や建設業協会)はぼろぼろなのだし、それは例えば、臍の緒でつながった母子の母親を無理やり消してしまったようなものなのであって、その臍の緒が探し当てた接続先(機能等価物)が、インターネットなのだと思う。

種の論理

そういう時代だからこそ田邉元の「種の論理」は意味を持つと、中沢新一は田邉元を再評価したのだが――私も個人が窓のない2階部分であることに異論はないのだけれども――、なんだかんだ云っても、1階部分(臍の緒の養分補給元)は共同体的なもの(若しくは集団主義的なもの、若しくは血縁関係の延長系)にしかなりえない、とも考えている。

それは理性とか魂の問題じゃなくて、そういうふうに人間(日本人)はできているとしか云いようがないもので、もしそうじゃないならSNSとしてのmixiは存在意義を失うだけでしかない、と云えば分かっていただけるだろうか。

とここで唐突に結論を書いてしまえば、江さんの云う「街的」と云うのは、バロックの館の1階部分だと云うことだろう。それは私を育て育むパトリであることで、それを真っ向から考えるひとはいつも矛盾の中にいる。そして孤独なのだけれども孤独じゃないのだと思う。

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桃知さま

そうかパトリだったんですか。
助かりました。


だんじり現象学

10月3日(月)

本日発売のAERAに、朝日新聞東京本社の石川さんによるだんじりの小特集が載る。
何とボリュームは6ページ、タイトルは「40代哲学 岸和田だんじり祭で見つけた」である。

9月22日のこの長屋ブログでもチラッと触れたが、わたしの「だんじり本」を読まれた石川さんはこの企画記事のため、わざわざ東京から岸和田に来られ、13日の試験曳きから本祭の3日間にかけてだんじり祭を取材されていた。
曳き出しの朝の午前5時にはすでにうちのだんじりの腰回りのすぐ前に(しかし目立たぬように)陣取って、各団体の長による「祭はじめの挨拶」を聞いていたし、2日間の祭礼行事の節目節目では必ず影武者のように「そこ」にいた。

見開きの2ページ目ど真ん中に、テーラータカクラでのM人一家の写真がでんと映っている。
日常のスナップだが、とてもいい写真である。
大きな座卓が置かれた元店の部屋には、だんじりの写真やポスターが貼られている。
ミニチュアの町旗や町紋入り弓張り提灯、子供用の太鼓まで置いてあるその部屋は、いつもオレやM雄やそのほかのだんじり関係の連中が、遠慮なしに上がらしてもうて酒を飲み、大いにだんじり話をして、20年間コンビを組んでいた前梃子の相棒のM雄など、時には酔っぱらってそのまま横になり朝まで寝ていて、奥さんに迎えに来てもらうことなどしばしばだ(M雄よ、同年会は9日の日曜、M人とこでええんやな。時間だけゆうといてくれ)。

M人に「ええ写真で映ってるど」と電話を入れると「もう見たわい。哲学て、これは難しい内容やのお。岸和田のもんの誰が読めるちゅうねん。せやけどよう書いちゃある、さすがアエラや」といい、「アテでハモ皮とキュウリの酢のもん出してきたら、これなんですか? こんなの食べてるんですか? て言うてたぞ。がははは」と笑う。
東京方面の方は大阪の代表的で気軽な夏の肴「鱧皮と胡瓜もみ」をご存じないのだったのだ。地元ではハモ皮はスーパーでも売っている。

さて話を戻すと、祭をやっている岸和田のわれわれは、だんじりだけで繋がっている社会を重層的に生きていて、会社、家庭といったかつて強固だった共同体のみにもはや帰属せず、だんじり祭が「第3の社交場」として機能していて、そこに現代社会のキー・オブ・ザ・ライフがある。
「社交」というのは石川さんによる山崎正和の『社交する人間』(中央公論新社)からの引用で、AERA記事中には会社や家庭への帰属意識とは違う「生きる術」の軸足が列挙されていて、それがまさに石川さんは「だんじりである」というわけだ。

加えて、
「はたと思う。岸和田のだんじりも現象学ではないか」
といった、もの凄い問いが立てられている。
実はこれがオレがだんじり祭を長年やっていて、さらに内田先生のこの長屋で「だんじり日記」を書いている時にも、常に「書こうとして」のたうちまわっていたことである。
石川さんは書いている。
 フッサールは「真理はない。あるのはそのつどそのつど、ひとびとが了解できる『解』『妥当』だけである」という思想を提示した。
 同様にハンドル、アクセル、ブレーキをそれぞれ別人が操作するだんじりの遣り回しに「正解」などない。
 あるのは「正解という確信」だけである。
 どの交差点で、どれだけの速さで突入すればいいのかなんて、だれも知らないし、どのタイミングで前梃子を放り込むのがベストかなんて、わかるわけはない。
 しかし300人近い人間それぞれは、全体の動きを勝手に想像しながら、各人がカンで「正解と確信する行動」を探りながら、4トンの塊と格闘する。

だんじりの遣り回しとフッサール現象学においての「正しさについて」がここでクロスする。
すなわち「何が世界(遣り回し)の正しい姿か」を考えることと、「(遣り回しについての)普遍的な考え方ということの原理はあるのか、また、それをどのように言い当てることができるのか」を思考することの間には、決定的な隔たりがあるのだと思う。
客観存在としての現象は、人の認識では完全に把握することはできない。
けれども、同じ身体感覚を共有する人間同士でなぜ「間主観性」といった共同意識が成立するのか、を証明するための問いをフッサールは立てた。
石川さんは「だんじりの参加者が、暗黙裏に了解していることが四つある」としたうえで「正しさは、外界にあるのではなく、みんなの了解のなかにある」と書いているのが、それではないか。

基本的にだんじり的人間世界の本質は「関係世界」であるといえる。
動物的すなわち身体的な「環境世界」は、「身体」に対して一義的な相関関係しかないが、「関係世界」では、この関係は多元的かつ多義的なので、その中での人間の身体は「幻想的な身体」として形成されていく。
その人間の関係世界は、基本的には他者との「関係」を築くための世界だが、これは本来、人間が自己を同定する「自我」をもつことから立ち上がる。
石川さんは「相手をリスペクトすることと同時に、相手からリスペクトされることが、集団の目標になる」と書いているが、それは自己了解と他者との関係了解の網の目みたいなものである。
だからこそ『社会関係を構築するということは、端的に言えば「不快な隣人」を排除することを自制する節度のことです。 』(東京ファイティングキッズP133/内田樹)が、だんじり祭のような激しい祭では必要なのだと思う次第だ。

>江さん

またまたコメントをありがとうございます。
だんじりは岸和田のみんなでたずさわるものなのだと思います。そのたずさわるものが非日常性をもつことで人間の脳みそは心地よいのだと思います。

私たちはこれをなくしてはいけません(と私は思うのです)。
それはつまりパトリです。